寺と花売り、榊原太夫。点と点が繋がる歴史の愉しみ。

重願寺の門前市、花売りの娘

数年も前のことであるが、江戸の寺社の門前市について調べたことがある。
門前市というのは寺社領であり民事の司法権を持つ町奉行の管轄外であるため、いわゆる聖域でもありつつ、岡場所(違法な遊女屋街)や賭場などといったアンダーグラウンドな文化を公然に醸成していた場所でもある。

なお江戸における町奉行は、北町奉行所・南町奉行所の1ヶ月交代シフト制の激務で知られ、過労死するものも多かった。寺社領まで見ている余裕もないのだ。(寺社奉行はもっと人員が少ない)
奉行として有名どころだと、幕末の外国奉行・小栗上野介忠順、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元、みんな大好き鳥居耀蔵などがいる。

で、隅田川の向こう岸、本所の地に重願寺という寺があった。今は猿江(半蔵門線住吉駅のほど近く)に移転し現存する浄土宗鎮西派の寺である。このごくごく閑静な寺が一時ではあるが江戸中の話題に登ったことがある。

猿江、半蔵門線住吉駅のほど近くに現存する浄土宗鎮西派の重願寺のwebサイト。日本橋、本所、猿江と移転を繰り返した寺でもある。

重願寺の門前市にはたいそう美人な、花売りの娘がいた。

あまりに美しいため、江戸中の男がこの娘を一目見て、一言二言交わしたいばかりに花を買い、重願寺内の誰とも知らぬ墓に花を供えることが続いた。結果、重願寺の墓地はいつも色とりどりの花で溢れかえり、一時期江戸の名物にもなったそうだ。

仏さん方の眠る墓地が男どもの煩悩の具現にまみれてしまう、という、いかにも江戸っ子情緒な逸話ということで皮肉な面白みを感じたことを覚えている。

吉原三浦屋の6代目高尾太夫

時を違えて、半藤一利先生の著書『ぶらり日本史散策』を手に取っていたところ、なんと、件の重願寺の花売りのことが書かれているではないか。

半藤一利先生の著書『ぶらり日本史散策』。先生の軽快な語り口調がめちゃくちゃ面白いのでオススメである。

花売り六兵衛の娘、お玉のことである。

享保年間(おそらく1720年頃)、このお玉の美しさが男どもの話題になる。神田や芝からわざわざ通う男もいたようで、まさに往復1日中かけるに値する美貌だったことが伺える。

おかげで重願寺、それほど古刹でもなく(1590年開山)、特徴もない寺が一気に花に埋もれ、江戸中の話題になったのだという。もちろん花売り商売も大繁盛。

ところが父の六兵衛が長患いに倒れてしまう。
お玉は治療代を稼ぐために、吉原一丁目の三浦屋四郎左衛門方へ身を売って遊女となった。

ちなみにこの時の吉原遊郭は新吉原と呼ばれ、元は人形町にあったが、明暦の大火後の都市再整備のため幕府の命によって浅草裏に移転させられたものである。

お玉は先述のように、江戸中で話題になるほどの美貌の持ち主である。
みるみる売れっ子の名妓となり、三浦屋の大名跡「高尾太夫」の6代目を継いだ。(7代目が混同されている場合もある)

画像は2代目高尾太夫。(高尾太夫 – Wikipedia – https://ja.wikipedia.org/wiki/高尾太夫)

この高尾太夫は名跡であるため何代か存在し、6代・7代・9代・11代の4説があるが、とりわけ、伊達綱宗に吊し斬りされた2代目仙台高尾、古典落語にもなった5代目紺屋高尾などが有名である。

江戸の高尾太夫は、京・大坂の吉野太夫・夕霧太夫とあわせて「寛永三名妓」と呼ばれ、実質的に江戸の遊女の最高格式であった。

なお上位遊女の呼称に「花魁」(おいらん)があるが、これは宝暦年間(1751年)以降、太夫が消滅した後に使われるもので、この頃はまだ存在しない。

父・六兵衛は太夫となったお玉の仕送りのおかげで無事回復するが、看板娘のいない花屋が儲かるべくもなく復帰後すぐに廃業、その後のことはわからない。重願寺も元の平凡な寺院に戻った。

浪費王・姫路藩主 榊原政岑による身請け

ここでまた驚いた。
かの浪費癖大名・榊原政岑に身請けされたのがこのお玉だとのこと。榊原家処罰の顛末は別ものとして知っていたからだ。

この6代高尾太夫ことお玉、播州姫路藩15万石の3代藩主である榊原式部大輔政岑のお気に入りとなり、寛保元年(1741年)春、1800両で身請けすることとなった。一説には2500両とも言われている。

榊原と言えば、初代当主である榊原康政が徳川四天王として有名な、徳川譜代の中でも名門である。康政は家康はもちろん秀吉のお気に入りともなり、徳川家臣の中では初めて官位を得、従五位下式部大輔に任官されるほどでもあった。後に老中となり、加増の打診を「老臣権を争うは亡国の兆しなり」として断る無私無欲の人としても知られる。

そんなの真面目な名門・榊原家であるが、この榊原政岑は多分に不真面目というか、遊興好きであり、「好色大名」とあだ名されもした人物。高尾太夫を口説くための遊興費として3,000両も使い込んだとも言われている。

こうしてお玉は榊原政岑の妾として姫路に下り、「榊原高尾」と呼ばれるようになった。

莫大なる見請け金は5億以上

高尾太夫の身請けの額、1,800両(または2,500両)は、現代ではいったいおいくら相当なのか。以下、多分に素人計算で間違っているかもしれないが紹介する。

1両の価値、当時は米価、物価と人件費でそれぞれ違っていた。
人件費での価値の場合、例えば寛政年間に1日1両で大工23人を雇えたとの記録がある。これから推測すると、人件費で「1両 = 30万円相当」。

つまりは、1,800両 = 5億4000万円 相当。

ちなみに江戸中期、町方奉公人として女中を雇った場合、年間1両の給金が相場だったそうだ。そんな中の5億である。

なお、物価での価値はどうなるか。
元禄13年(1700年)から天保13年(1842年)での三貨公定相場が「金1両 = 銀60匁 = 銭4,000文」と決まっていた。かけそば1杯の値段を16文 = 300円とすると、物価の場合で「1両 = 約 13万円」。江戸時代、物価はとてつもなく高かったのである。

榊原家、越後高田への左遷

榊原政岑が吉原で遊興にふけっている当時、8代将軍・徳川吉宗が進める享保の改革の質素倹約規制強化の真っ只中である。

もちろん、政岑の浪費散財っぷりは将軍吉宗の目に留まる。倹約マニアの吉宗にとって、妾の身請け金5億4000万円など怒り心頭、万死に値するものだったに違いない。

似たように怒りを買ったものとして尾張藩第7代藩主の徳川宗春がいるが、こちらは緩和経済思想を根本としているためまだ救いようがある。政岑の方は単なる膨大な無駄遣いである。
徳川宗春については、こちらの記事に詳しく書いた

政岑は調査を受けるため出府を命ぜらる。あわや改易となることろであったが、家臣の必死の弁明の甲斐もあり、越後高田への転封と自身の蟄居・隠居で済むことになった。表面的な石高は変わらないが姫路に比べれば僻地であり飛び地が多く、実質的な減封左遷である。

国替えで済んだ理由には、先に紹介した始祖・榊原康政のおかげ、という話がある。
榊原康政が家康から水戸に加増転封を打診されるが、功がないとして断った際、家康から「榊原に借りがある」旨の神誓証文をもらった。
弁明時にこの榊原家に伝わる神誓証文を持ち出し、改易を免れたのである。先祖の康政もこのような形で使われるとは思ってもみなかったであろう。

また、当の榊原高尾についての弁明もされたらしい。
政岑の江戸出府の直前に政岑の乳母が亡くなった。榊原高尾こそが、その乳母の生き別れの娘であり、乳母を弔うため落籍保護したのだと。

榊原家江戸留守役である村上主殿が嘘泣きの演技をする。このすぐにバレる法螺話を大袈裟に繰り広げるものだから、詰問にあたっていた松平左近将監はじめとする老中どもも呆れ返り、武士の情けをかけたのだと言う。

もちろん、死んだ乳母のことさえもウソである。

高尾と政岑のその後

寛保2年(1742年)、榊原政岑にともなって、榊原高尾も越後高田に同行した。

政岑は高田藩では心を入れ替えたのか内政に励み、自身も倹約に努めた。
それもあってか、ひ孫である榊原政令は藩財政を立て直した名君として讃えられたほど。

高田藩といえば、戊辰戦争では官軍に恭順するも、戦後、降伏した会津藩士を預かり情を持って手厚く保護したことで知られている。高田には今も「会津墓地」があるため、幕末ファンにもおなじみであろう。

しかし、転封後すぐの翌年には政岑が亡くなってしまい(享年30)、榊原高尾は側室のお岑の方に呼ばれて江戸に戻る。(榊原高尾は「越後高尾」とも呼ばれるが、越後在住期間が非常に短いため一般的ではない。)

高尾は特別に正室扱いされていたために大名屋敷に住むことができたらしい。
花売りをしていた本所の川向う、吉原にもほど近い上野池之端の榊原下屋敷にて、連昌院と号して静かに余生を過ごしたと言う。
なお、この榊原下屋敷跡は現在は旧岩崎邸庭園となっている。

ともあれ、同じような場所に戻ってくるというのがまた奇縁に思う。

榊原高尾の墓所でまた驚いた

最後にもっとも驚いたことがある。

私が働く事務所のすぐ近く、徒歩2、30秒ほどのところに、本立寺(ほんりゅうじ)という日蓮宗の寺院がある。

なんとこの本立寺が榊原高尾の墓所だったのである。
よもやこのような近くに関係のあるものだとは思いもしなかった。

南池袋の本立寺。播州姫路藩榊原家6代政邦の生母延寿院以降、正室側室代々の菩提寺。

なんの案内や説明板もないが、ひっそりと佇む墓石にはたしかに「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」との刻字がある。

「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」が刻まれている、6代高尾太夫(お玉)の墓。本立寺の墓地の片隅にひっそりと佇む。

この本立寺は榊原家の裏方菩提寺である。(代々の正室・側室、女性たちの菩提寺)
このため榊原高尾の墓もここにある。
榊原家代々の正室・側室の立派な墓は別にあるため、高尾が正室扱いだったとは言え、やはり妾は妾だったのだろう。

榊原家代々の正室・側室の立派な墓がこちら

他には寺の入口近くに榊原高尾の石碑、高田藩抗戦派である神木隊の戊辰戦死之碑もあり、どちらも立派なもの。

もともと、榊原高尾が花売りをしていた重願寺は日本橋から移転してきた寺であり、このあたりには昔からは猿江稲荷別当である妙本寺という日蓮宗の寺があった。
本所猿江に住む住人にとってはこの妙本寺が菩提寺であり、お玉の父娘も檀家であった可能性もある。ともすれば、宗旨の同じ日蓮宗の寺院に弔われたのは、これまた奇縁だなと思う。

点と点が繋がる歴史の妙

そもそも、

  • 重願寺の門前市の花売り
  • 榊原家の転封
  • 越後高田藩
  • 事務所近くの本立寺

はそれぞれまったく別の点として読んだり知ったりしたことで、自分の中で意図的に関連付けることはなかった。
これらの点が、意図せぬなんらかの触媒を経て繋がった時の感覚は、歴史ファンの皆さんなら共感いただけるのではないだろうか。ゾクッとする快感のような。

司馬遼太郎もエッセイで似たようなことを書かれていたように覚えている。たしか、所郁太郎についてだったか。資料を読むと何かと所郁太郎が出てきて「また君か!」と思った旨を書かれていたはず。

というような感覚をお伝えしたくて、ダラダラと勢いで書いてしまった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

僕とラーメンと水戸のご老公

水戸黄門とラーメン

どうも。株式会社まぼろしの松田です。
この記事は「ラーメン Advent Calendar 2013」19日めの記事です。

高田馬場「べんてん」

高田馬場 べんてん

高田馬場にある「べんてん」に行ってまいりました。実に2年以上ぶり。気取らないたたずまいは健在でした。

オーダーしたのはベーシックな「ラーメン(750円)」。いわゆる大勝軒系のラーメンで、本家を超えた逸品だと思います。

ラーメン 750円

大きめのチャーシューにたっぷりのメンマ。おいしかったです。トッピングで追加できる自家製メンマはすぐに品切れになるくらい美味しいのでオススメです。

日本ではじめてラーメンを食べたのが水戸黄門

いきなりですが、ラーメンネタということで。
この逸話というか記録に残っている範囲では事実なんですが、割と有名なんで皆さんご存知かと思います。

このことは、皆如院日乗上人の「日乗上人日記」に記されておりますし、横浜のラーメン博物館にはこの水戸黄門が食したであろう日本初のラーメンのレプリカが展示されていたりしますね。行ったことないけど。
なので、当記事のこの後は「ラーメンと水戸黄門」について好き勝手に書くこととします。
この後を読み続けるのは苦行になりかねませんので覚悟してください。

水戸黄門こと徳川光圀公

水戸のご老公
若い頃の辻斬りは楽しゅうてな!カッカッカッ!

かの国民的時代劇により、だれでもその名を知っている水戸黄門こと徳川光圀公ですが、どういった人物かご存知でしょうか。まずは予習しましょうか。

徳川光圀は徳川御三家のひとつ水戸藩の第2代藩主。江戸幕府の始祖・徳川家康の孫にあたります。

時代劇で有名な「天下の副将軍」という役職は実際にはなく、水戸藩主は将軍を代理する義務があり江戸に常駐していたため、そうあだ名されたものです。

なお「黄門」というのは本来「黄門侍郎」といい、日本の官職「少納言」の唐名です。水戸の光圀さんの官職が少納言だったから「水戸黄門」ですね。参議だった蒲生氏郷を「会津宰相」と呼ぶのと同じです。

ちなみに、水戸藩は御三家の中では最も家格が低く、尾張・紀州家は将軍後継権を持っているのに対して水戸徳川家は正式には持っていません。(水戸徳川である15代将軍の慶喜は御三卿の一橋家へ養子に出てからの将軍就任)その代わり、水戸藩は参勤交代を免除されていたりしました。

まぁ水戸藩の話はどうでもいいです。
黄門様の話に戻りましょう。

黄門様の意外な人物像

時代劇の黄門様はそれはもう好々爺でしたが、実物は真逆。

それはもうパンクです。基地外です。まぁまだ戦国の気風が色濃い時代なのでさもありなん、かもしれませんが。
以下にガイキチな逸話を列挙します。

辻斬り大好き
若い頃は札付きの不良ってな感じだったらしく、刀の試し切りのため辻斬を繰り返していたそうです。防衛ではなく快楽殺人
説によると50人以上斬り殺しているとか。しかも屈強な武者を多数引き連れての行為です。悪代官よりも悪ですね。
遊郭大好き
上記と同じ頃、吉原の遊郭に通いつめていたそうな。女性モノの着物を羽織り、いわゆる傾奇者の格好をして派手に遊んでおり、藩主になってからも女癖は収まらず、吉原だけでなく浅草、千住、湯島の遊郭にもこっそり通っていたとか。
そのせいか、まだ衆道(男色)の文化が色濃かったこの時代に「女色は、衆道と違い男女双方が気持ちいい。政治もそうあるべき」とかそれっぽいことを言ってたりする。それっぽいことを。
生類憐れみの令ガン無視
当時の将軍・徳川綱吉の発布した「生類憐れみの令」。お犬様を大事に!なアレです。黄門様はアホくさいとばかりにこれを無視。
無視するだけならまだしも、将軍・綱吉に対して「オレ、お犬様殺しちゃったわー」と犬の毛皮をあてつけに献上したという噂まで。性格超悪いですね。
やっぱ血の気が多い
4代将軍・徳川家綱が11歳で将軍職を継ぐとき、諸大名に向かって「お前ら。(将軍が幼少のため)天下を狙うものは機会だぞ。まぁこの光圀がフルボッコしてやるから、かかってこいや!」と啖呵を切ってます。
が、彦根の井伊直孝に「家康公より先陣の誉れをいただいているのはこの井伊家です。水戸家ではござりませんな」と言いくるめられて、ぐぬぬ、となったそうです。
これにより水戸と彦根の仲は超絶悪くなり、幕末に至って桜田門外の変の遠因となります。ウソですが。

学問にハマる

とまぁこんな悪行三昧な光圀くんですが、歴史書『史記』に出会って感動。
学問好きへと一変します。

「オレも日本の歴史をまとめたい」と、かの有名な『大日本史』の編纂を開始。以後、編纂事業は水戸藩の一大事業となり、財政を傾けるほどお金をつぎ込んでいきます。

純粋なきっかけは「戦国の世に生まれて武功を立てたかったけど、そんな時代じゃないし、書物でも書いて有名になりてぇ」だったそうですが。

ちなみに、光圀自身は全国漫遊はしておらず(江戸・水戸・日光・鎌倉だけ行ったことがある)、助さんのモデルとなった家臣の佐々(介三郎)宗淳を全国に派遣して資料収集をさせていました。

黄門様にラーメンを食わせた、明の儒学者・朱舜水

そんなこんなでいきなり学問に目覚めた黄門様。様々な学者を集めて囲う、招聘マニアになります。

中国では明朝が事実上滅亡し、清朝が勃興しておりました。明朝の皇族や遺臣は亡命王朝である南明朝を作り復興運動を起こします。

南明には鄭成功という重臣がおりまして、この鄭成功が中国人と日本人のハーフ、しかも日本の平戸で生まれ、7歳まで住んでいた縁もあって、日本に救援要請を求めます。この時に日本に外交官として派遣されたのが件の「朱舜水」。

ところでこの鄭成功、台湾や日本では英雄として人気があり、歌舞伎の「国姓爺合戦」の主人公となっていたりします。司馬遼太郎の『大盗禅師』でも重要人物となっています。

結局、明の復興運動は失敗に終わり、朱舜水は日本に亡命
ここで見を光らせたのが学者招聘マニアとなった光圀公。高名な学者であった朱舜水を招聘し江戸に定住させます。

朱舜水
朱舜水「時代劇の水戸黄門に、ワシ出てきたっけ?」

ここで朱舜水が中華麺を調理し、光圀公に献上したのが日本におけるラーメン史の始まりとされています。

ようやく日本初のラーメンにたどり着きました。
前置き長かったね。すまん。

当時のラーメンは今と同じくスープに鶏や豚の出汁を使ったそうですが、五辛という薬味が必須で、これにより味は薬膳料理に近かったとのことです。

光圀公自身、朱舜水からラーメンの調理方法を学び家臣などにも振る舞ったとのことですので、相当気に入ったのでしょう。
ただ当時は生類憐れみの令の発布真っ最中なので、鶏や豚の出汁を家臣どもは超嫌がったに違いないですが。

水戸市では、この当時のラーメンを再現したものを提供するお店もあり、またネット販売もされていますのでご興味のある方は是非。

ちなみに光圀公、元々うどんを打つことが趣味だったりと料理が好きだったようで、日本で初めてチーズを自作したりもしています。(牧場を作ってまでして)

ラーメンが取りなした歴史の妙

とまぁ、朱舜水、時の副将軍である徳川光圀公の胃袋をまんまと掴んだわけでして、その後の光圀と舜水はそれはもう蜜月でございます。(ラーメン以外にも餃子や牛乳酒も食べさせたらしい)
実はこの出会いが、後の日本の歴史に多大な影響を与えているんです。

南朝的「忠義」感の定着
おれ大楠公。足利にはよくウンコ投げつけてやったものよ。
おれ大楠公。足利にはよくウンコ投げつけてやったものよ。

この朱舜水、日本に来てから「太平記」の歴史に出会い、南朝方の楠木正成の忠義に感銘を受けています。おそらく先述の鄭成功を彷彿したのでしょう。実際、直臣でもない身上ながら皇に忠義を尽くすところ、なんとなく生き方が似ています。あと同じ“南朝”だし。
光圀は朱舜水に学んでおり、この南朝を正当とする忠義感に多大に影響されています。これの忠義感・正当性の考え方が後の水戸学にも影響し、さらに幕末に拡大して全国で定着するようになります。
ちなみに、この南朝正統論は未だに議論になったりします。(現皇室は南朝の血統ではない、とか)

「大日本史」と水戸学のコンセプト
北畠親房
北畠親房「むしろ、オレが朱舜水の師匠だろうが」

上記の影響もあり、大日本史では南朝正統論を唱えているのがひとつの特徴となりました。日本古来の大義名分を明確にするコンセプトとなっており、つまり、南朝正統論、ひいては天皇を唯一無二のトップとする尊皇論をもって全体が書かれています。
朱舜水の忠義感、および北畠親房の「神皇正統記」の影響がベースとなっているわけですね。
このコンセプトがいわゆる「水戸学」へと昇華します。
「大日本史」は歴史書というよりも水戸学における思想書、と言えるわけでございます。ただ幕府の全盛期ですし光圀公自身も徳川の血統ですので、別に「幕府ダメ。倒幕だ!」という考えはもちろん含まれていません。あくまで「日本古来のあり方」がテーマになっているだけで、これを幕末の水戸学と区別しまして前記水戸学といったりします。

忠臣蔵の赤穂浪士が受けた影響
忠臣蔵
ちょっとジジィいじめてくるわ

同じ頃に、山鹿素行という軍学者がおりまして、忠臣蔵の大石内蔵助の師匠さんに当たるお方でございます。山鹿流軍学で有名なお方ですね。
この素行さん、学者マニアの光圀公と深く親交しており、朱舜水と同じく一時的に大日本史の編纂にも関わったこともあったとか。ということで朱舜水の思想・忠義感に影響を受けておるわけです。
著書『聖教要録』において幕府の正学である朱子学を批判した罪で赤穂へ流謫となり、ここで藩家老の大石内蔵助をはじめ、赤穂藩士の教育を行うこととなります。
この赤穂時代に、皇統の一貫をテーマとした『中朝事実』という歴史書を著しており、思想的にも朱舜水および水戸学の影響を色濃く受けていることが伺えます。
この忠義感を教えこまれた赤穂四十七士が、義士とはこうあるべきだぜ! と「元禄赤穂事件」「忠臣蔵」を引き起こすことになります。
朱舜水の思想が起爆剤になった歴史の一コマですね。

幕末における水戸学の影響
光圀公と朱舜水が起こしたとも言える水戸学のベースは先述のとおり「尊王論」。
(ちなみに、天皇は「王」であって、将軍は「覇」となります)
水戸9代藩主である徳川斉昭が、水戸学者である藤田幽谷・会沢正志斎・藤田東湖らを重用したことで一気に全国に広まります。これがいわゆる後期水戸学。
外夷襲来という未曾有の国難に突入したこの時代、「大事なのは藩でも幕府でもない。日本そのものだよねー」とこの日本古来の大義名分を重んじる思想が幕末の志士たちに大受け。尊王攘夷思想の聖書になりました。
吉田松陰と朱舜水
吉田松陰
どうも童貞です。

神戸の湊川神社には「大楠公ご墓所」として、先述の楠木正成の墓碑があるのですが、碑石の裏面には朱舜水の書いた大楠公を称える賛文が刻まれています。(参考 : 神社の由緒|湊川神社(楠公さん)-神戸市中央区
大楠公のファンだった吉田松陰はこの墓所にもちろん参拝しており、以下のように日記も残しています。

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が書いた文を読んで、また涙した。
(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社)

というわけで、松蔭はじめ、彼に影響された高杉晋作、桂小五郎、西郷隆盛などの志士たちもまた、朱舜水の思想に感化されたと言っても過言ではないわけです。

朱舜水と陽明学
幕末における後期水戸学のことを理解しようとするのであれば、儒教における思想体系である「陽明学」、同じく「朱子学」を知る必要があります。陽明学は何よりも実践を是とする学問ですので、行動派の人物に好まれました。格さんのモデルとなった安積澹泊、大塩平八郎、山田方谷、佐久間象山、河井継之助、吉田松陰などビッグネームがこの学派ですので、まぁその程度は計り知るべしですね。陽明学については長くなるのでまたの機会に。

ラーメンと朱舜水は日本の歴史を変えた

そんなこんなで、ラーメンを水戸黄門に食わせたおっさんこと、朱舜水の偉大さがお分かりいただけたでしょうか。

特に幕末の討幕運動・明治維新においては、この朱舜水が水戸黄門にラーメンを食わせた瞬間に起源をすら感じます。

今や国民食の地位さえ得たラーメンを日本にもたらし、忠義における思想感を定着させたという朱舜水の功績。

僕はラーメンを食べるたびに、これらの日本が経てきた歴史、明の復興に掛けた朱舜水のことを思い、心打ち震えるのです。そんなことはありませんが。
つまり、江戸中期以降の我らが神国日本の歴史はこの薬膳臭いラーメンとの出会いに始まったと言えなくもない、いや言えないと言えるでしょう。

まとめ

水戸黄門が懲らしめた悪代官の数は、幕府が任命した全代官の数の 5.7倍。 つまり、一人当たり5回以上懲らしめられてる計算。

だってさ。さすがのジェノサイダー黄門様。

あ、高田馬場の「べんてん」、おすすめです。

ラーメンのアップ 以上、「ラーメン Advent Calendar 2013」19日めの記事でした。おわり。

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[大河ドラマ] お江の子孫をまとめてみました。

今年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放送回も、いよいよ半分が過ぎようというところでしょうか。年末に「坂の上の雲」が放送されるので、11月で終了するでしょうからね。
おそらく、お江の死までがお話として放送させるでしょうから、先にお江の死後の歴史も予習しておきましょうかね。

ぼじぃ市松5月の時点で、羽柴秀勝への再嫁のくだりになるしな。彼女の旦那調教の本格化もこれからだ。

めがね治部少輔こちらのサイトにも、検索からで訪問くださる方もいらっしゃる方もございまして、「お江 子孫」のキーワードも多いことですし、お江の子孫をサクッとまとめてみようかな、と。

ぼじぃ市松いつも好き勝手やりすぎてるので、たまには需要のある記事でも書いてみようかなぁ、
と下心丸出しでございます。みんな読めよ。

めがね治部少輔お読みいただいている方は、いつもありがとうございます。
つか、下心でしか記事を書いたことがないけどな。
ということで、以下、お江の子女とその子孫の簡単なまとめにございまする。 “[大河ドラマ] お江の子孫をまとめてみました。” の続きを読む

花のお江戸の珍事件。太平の江戸時代にもこんな事件 その2

花のお江戸の珍事件。太平の江戸時代にもこんな事件 その2
徳川幕府が政権を握っていた江戸時代。この平和な時代に起きた珍事件を紹介した前回ですが、その続きでございます。優秀な政権であった幕府ですが、それはそれ、封建制度ならではゴリ押し政策もございまして、なかなかブラックな一面も持ち合わせておる訳です。そんな、幕府の無茶振り政策が今回の紹介事件ですぜ。旦那。

めがね治部少輔えーと、だいぶ更新をさぼっていた訳ですが、ごぶさたしております。

ぼじぃ市松確定申告やら、年度末の繁忙期やらで、多忙でしてね。奉公人の身としては、御上には逆らえませんでのぉ。

めがね治部少輔かなり間が空いてしまいましたが、「花のお江戸の珍事件 その2」をご紹介します。
前回は、なんつーか、割と平和な時代だからこその、おもしろ事件をご紹介したんですが、今回は「やっぱ幕府こえー!!」ってなるような事件をご紹介しましょう。

ぼじぃ市松幕府には、必殺技「減封波」と「改易拳」のスーパーコンボがあるからなぁ。ガード不可。ゴリゴリけずるぜ。 “花のお江戸の珍事件。太平の江戸時代にもこんな事件 その2” の続きを読む

なが〜く愛して、深〜く支配。長寿政権はどれだ?

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きありと昔から良く言われ、永久不変なものは無いといわれますが、 ここ日本でも長期政権に成功した一族や一党がいます。
彼らの業績もさることながら、長く続けたということも文化の発展、国家の成長を促したのではないでしょうか?そんな時の権力者の栄光と挫折はいかに?

ぼじぃ市松最近は首相がコロコロ変わるじゃん。逆に長い間政権を取っていたのって誰なんだろうね?

めがね治部少輔長い間政権を取っているというと、時の権力者ちゅーことだろ?藤原氏とか蘇我氏とか源氏とか平氏とか北条家とかそんなやつ?

ぼじぃ市松そうそう!実際に政権を取っていたグループとか一族とかそういうのはなんだろうね? “なが〜く愛して、深〜く支配。長寿政権はどれだ?” の続きを読む

「最後の忠臣蔵」を観てきました!

最後の忠臣蔵

赤穂浪士の吉良邸討ち入りで、大石内蔵助率いる46名が切腹により主君に殉じた中、密かに生き残った瀬尾孫左衛門(役所広司)と寺坂吉右衛門(佐藤浩一)という2人の武士。
討ち入りの事実を後世に伝えるため生かされた寺坂は、事件から16年後、討ち入り前夜に逃亡した瀬尾に再会。
そんな2人の武士を描きながら、瀬尾の逃亡の真相に迫っていく作品。

あらすじを知らない上に「忠臣蔵」についてもほぼ無知だったため、多少予習をして臨んだのですが、あの有名な討ち入りのシーンは開始10分程度で終了…。
テスト前日にヤマをはってみたものの、全く的外れだった時のような動揺を若干感じつつも、そんな筆者でも十分楽しめる作品でした。 “「最後の忠臣蔵」を観てきました!” の続きを読む

花のお江戸の珍事件。太平の江戸時代にもこんな事件 その1

徳川幕府が政権を握っていた江戸時代。世界史的に見ても大変優秀な政権でして、260年以上にもわたって、日本史上稀に見る太平の時代となります。
が、しかし。世に何も起こらず、ただ太平をむさぼっていたわけではございませぬ。そこはそれ、太平の世の中ならでは事件も起こっているわけです。現代とは文化・風習が違うわけですから、庶民間では、今では考えられない事件・犯罪も起きていたわけですが。

めがね治部少輔いやぁ、江戸時代は、基本的には本当に平和な時代だっただろうな。庶民に圧政を敷いたケースもなくはないけど、中国やヨーロッパの歴史と比べたら、全然常識の範疇だし。今でいう人権も保たれてはいるし。いわゆる奴隷制度もないし。賤民層にも専有職が保証されるなど、優しい時代だ。

ぼじぃ市松庶民の間での犯罪や事件は、今と変わらず多かったと思うが、「殺傷」事件はめちゃくちゃ少なかったらしいしな。政治犯罪つーか、幕府が大々的に介入するほどの大事件も少ないんじゃないか?

めがね治部少輔有名どころでは、「島原の乱」「元禄赤穂事件(忠臣蔵)」「大塩平八郎の乱」「桜田門外の変」とかいったところかなぁ。
ただ、そんなに有名じゃないだけで、それなりに政治犯罪クラスの事件もあるよ。教科書には載らない程度に地味なのものだけど。

ぼじぃ市松で、あるか。あと、各藩でのお家騒動も事件としていっぱいあるし。
まぁ、戦国期と幕末期の、日本全体的なオラオラ感が派手すぎて、地味に見えてしまうのはしょーがないですな。

めがね治部少輔今回はちょっと真面目に、教科書では扱わない江戸期の珍事件をご紹介。大きめの事件、政治犯罪関連の事件だけ紹介しますね。。お家騒動、仇討ち、庶民間の事件は除きますね。いっぱいありすぎるので。 “花のお江戸の珍事件。太平の江戸時代にもこんな事件 その1” の続きを読む

2011年の大河ドラマ「お江〜姫たちの戦国〜」を大予習だ!

NHK大河ドラマ大奥シリーズ第三弾となる「お江〜姫たちの戦国〜」。江戸初期のおひいさまと言えば誰はばかる事無くこの人なんだけど、ちょっと影が薄いですよね….

ぼじぃ市松来年の大河ドラマ、お江だってね。ちょっと地味だよなー。

めがね治部少輔なんで? すげえじゃん。戦国〜江戸初期において姉妹でツンデレ対決を演出した姫じゃん。

ぼじぃ市松いやいや、どうせ秀忠と愛を育み、儚くも強く生きた女性群像!なんて設定になると思うんだ。

めがね治部少輔お江といえば、vs淀 vs春日局と歴史的女性陣と渡り合った女傑っていう感じで話を作っていくんじゃない?
つーか、是非そうして欲しいんですが。

ぼじぃ市松いや、多分違う。まず秀忠が朴念仁ではなく、父とは違って平和を愛した優しい男になってるはず。だって、秀忠役「向井理」だぜ! 

めがね治部少輔えぇ?水木先生? げげげの旦那じゃん!!!

ぼじぃ市松ということでキャストとプロフィールを紹介!! “2011年の大河ドラマ「お江〜姫たちの戦国〜」を大予習だ!” の続きを読む

思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 番外編

思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 番外編
皆様のおかげで、わりと好評を得ましたこの肖像画シリーズ。前回までは数ある武将の肖像画のなかからたった10選ということで、かなり厳しい審査となりました。いや、過去に見たなかで印象に残ったものを思い出しただけなんですが、順位づけはなかなか苦労しました。いや、思い出した順なんですが。
10選では突っ込めなかった肖像画もやはり、あるわけでして。ということで、今回は番外編。
(10位〜6位はこちらですぞ!!) (5位〜1位はこちらですぞ!!)

めがね治部少輔前回までは、たった10選ということで、惜しくもランク外となってしまった武将たちも多くいらっしゃいます。

ぼじぃ市松まぁ、そういった方々には、次回がんばっていただくとして。

めがね治部少輔次回て。どうがんばればいいのか?

ぼじぃ市松まぁ、ランク外・規格外な肖像画もあるしな。ツッコミが難しいものや、なんかこう、そういうの超越してるっていうか。ランク付けするのもおこがましいというか。

めがね治部少輔もう「殿堂入り」というお方かな。まさに規格外。King of Shozoga。 “思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 番外編” の続きを読む

思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 10選 (5位〜1位)

思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 10選 (5位〜1位)
武将たちの肖像画に対して突っ込みを入れてネタにするという、無礼千万なこのコンテンツ。世が世なら我々、切り捨て御免にござるな。とはいえ、前回10位〜6位までやってしまったので、もう上位分もネタにするしか残された道はありません。ということで、思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 5位〜1位にござりまする。
(10位〜6位はこちらでご覧いただけますぞ!!)

ぼじぃ市松武将の肖像画をネタにしてるってことで、今更ながら失礼な話ですな。

めがね治部少輔自分の写真を、自分のいないところでバカにされているのと同じなんでね。いい気分にはならんなぁ。

ぼじぃ市松ともあれ、我々「戦国時代、果ては日本史が全部好き」ということでお許しいただこう。

めがね治部少輔そうそう、許してね♪ ということで、思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 10選、後半戦。5位から1位まで、どうぞ。 “思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 10選 (5位〜1位)” の続きを読む