重願寺の門前市、花売りの娘
数年も前のことであるが、江戸の寺社の門前市について調べたことがある。
門前市というのは寺社領であり民事の司法権を持つ町奉行の管轄外であるため、いわゆる聖域でもありつつ、岡場所(違法な遊女屋街)や賭場などといったアンダーグラウンドな文化を公然に醸成していた場所でもある。
なお江戸における町奉行は、北町奉行所・南町奉行所の1ヶ月交代シフト制の激務で知られ、過労死するものも多かった。寺社領まで見ている余裕もないのだ。(寺社奉行はもっと人員が少ない)
奉行として有名どころだと、幕末の外国奉行・小栗上野介忠順、遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元、みんな大好き鳥居耀蔵などがいる。
で、隅田川の向こう岸、本所の地に重願寺という寺があった。今は猿江(半蔵門線住吉駅のほど近く)に移転し現存する浄土宗鎮西派の寺である。このごくごく閑静な寺が一時ではあるが江戸中の話題に登ったことがある。
重願寺の門前市にはたいそう美人な、花売りの娘がいた。
あまりに美しいため、江戸中の男がこの娘を一目見て、一言二言交わしたいばかりに花を買い、重願寺内の誰とも知らぬ墓に花を供えることが続いた。結果、重願寺の墓地はいつも色とりどりの花で溢れかえり、一時期江戸の名物にもなったそうだ。
仏さん方の眠る墓地が男どもの煩悩の具現にまみれてしまう、という、いかにも江戸っ子情緒な逸話ということで皮肉な面白みを感じたことを覚えている。
吉原三浦屋の6代目高尾太夫
時を違えて、半藤一利先生の著書『ぶらり日本史散策』を手に取っていたところ、なんと、件の重願寺の花売りのことが書かれているではないか。
花売り六兵衛の娘、お玉のことである。
享保年間(おそらく1720年頃)、このお玉の美しさが男どもの話題になる。神田や芝からわざわざ通う男もいたようで、まさに往復1日中かけるに値する美貌だったことが伺える。
おかげで重願寺、それほど古刹でもなく(1590年開山)、特徴もない寺が一気に花に埋もれ、江戸中の話題になったのだという。もちろん花売り商売も大繁盛。
ところが父の六兵衛が長患いに倒れてしまう。
お玉は治療代を稼ぐために、吉原一丁目の三浦屋四郎左衛門方へ身を売って遊女となった。
ちなみにこの時の吉原遊郭は新吉原と呼ばれ、元は人形町にあったが、明暦の大火後の都市再整備のため幕府の命によって浅草裏に移転させられたものである。
お玉は先述のように、江戸中で話題になるほどの美貌の持ち主である。
みるみる売れっ子の名妓となり、三浦屋の大名跡「高尾太夫」の6代目を継いだ。(7代目が混同されている場合もある)
この高尾太夫は名跡であるため何代か存在し、6代・7代・9代・11代の4説があるが、とりわけ、伊達綱宗に吊し斬りされた2代目仙台高尾、古典落語にもなった5代目紺屋高尾などが有名である。
江戸の高尾太夫は、京・大坂の吉野太夫・夕霧太夫とあわせて「寛永三名妓」と呼ばれ、実質的に江戸の遊女の最高格式であった。
なお上位遊女の呼称に「花魁」(おいらん)があるが、これは宝暦年間(1751年)以降、太夫が消滅した後に使われるもので、この頃はまだ存在しない。
父・六兵衛は太夫となったお玉の仕送りのおかげで無事回復するが、看板娘のいない花屋が儲かるべくもなく復帰後すぐに廃業、その後のことはわからない。重願寺も元の平凡な寺院に戻った。
浪費王・姫路藩主 榊原政岑による身請け
ここでまた驚いた。
かの浪費癖大名・榊原政岑に身請けされたのがこのお玉だとのこと。榊原家処罰の顛末は別ものとして知っていたからだ。
この6代高尾太夫ことお玉、播州姫路藩15万石の3代藩主である榊原式部大輔政岑のお気に入りとなり、寛保元年(1741年)春、1800両で身請けすることとなった。一説には2500両とも言われている。
榊原と言えば、初代当主である榊原康政が徳川四天王として有名な、徳川譜代の中でも名門である。康政は家康はもちろん秀吉のお気に入りともなり、徳川家臣の中では初めて官位を得、従五位下式部大輔に任官されるほどでもあった。後に老中となり、加増の打診を「老臣権を争うは亡国の兆しなり」として断る無私無欲の人としても知られる。
そんなの真面目な名門・榊原家であるが、この榊原政岑は多分に不真面目というか、遊興好きであり、「好色大名」とあだ名されもした人物。高尾太夫を口説くための遊興費として3,000両も使い込んだとも言われている。
こうしてお玉は榊原政岑の妾として姫路に下り、「榊原高尾」と呼ばれるようになった。
莫大なる見請け金は5億以上
高尾太夫の身請けの額、1,800両(または2,500両)は、現代ではいったいおいくら相当なのか。以下、多分に素人計算で間違っているかもしれないが紹介する。
1両の価値、当時は米価、物価と人件費でそれぞれ違っていた。
人件費での価値の場合、例えば寛政年間に1日1両で大工23人を雇えたとの記録がある。これから推測すると、人件費で「1両 = 30万円相当」。
つまりは、1,800両 = 5億4000万円 相当。
ちなみに江戸中期、町方奉公人として女中を雇った場合、年間1両の給金が相場だったそうだ。そんな中の5億である。
なお、物価での価値はどうなるか。
元禄13年(1700年)から天保13年(1842年)での三貨公定相場が「金1両 = 銀60匁 = 銭4,000文」と決まっていた。かけそば1杯の値段を16文 = 300円とすると、物価の場合で「1両 = 約 13万円」。江戸時代、物価はとてつもなく高かったのである。
榊原家、越後高田への左遷
榊原政岑が吉原で遊興にふけっている当時、8代将軍・徳川吉宗が進める享保の改革の質素倹約規制強化の真っ只中である。
もちろん、政岑の浪費散財っぷりは将軍吉宗の目に留まる。倹約マニアの吉宗にとって、妾の身請け金5億4000万円など怒り心頭、万死に値するものだったに違いない。
似たように怒りを買ったものとして尾張藩第7代藩主の徳川宗春がいるが、こちらは緩和経済思想を根本としているためまだ救いようがある。政岑の方は単なる膨大な無駄遣いである。
(徳川宗春については、こちらの記事に詳しく書いた)
政岑は調査を受けるため出府を命ぜらる。あわや改易となることろであったが、家臣の必死の弁明の甲斐もあり、越後高田への転封と自身の蟄居・隠居で済むことになった。表面的な石高は変わらないが姫路に比べれば僻地であり飛び地が多く、実質的な減封左遷である。
国替えで済んだ理由には、先に紹介した始祖・榊原康政のおかげ、という話がある。
榊原康政が家康から水戸に加増転封を打診されるが、功がないとして断った際、家康から「榊原に借りがある」旨の神誓証文をもらった。
弁明時にこの榊原家に伝わる神誓証文を持ち出し、改易を免れたのである。先祖の康政もこのような形で使われるとは思ってもみなかったであろう。
また、当の榊原高尾についての弁明もされたらしい。
政岑の江戸出府の直前に政岑の乳母が亡くなった。榊原高尾こそが、その乳母の生き別れの娘であり、乳母を弔うため落籍保護したのだと。
榊原家江戸留守役である村上主殿が嘘泣きの演技をする。このすぐにバレる法螺話を大袈裟に繰り広げるものだから、詰問にあたっていた松平左近将監はじめとする老中どもも呆れ返り、武士の情けをかけたのだと言う。
もちろん、死んだ乳母のことさえもウソである。
高尾と政岑のその後
寛保2年(1742年)、榊原政岑にともなって、榊原高尾も越後高田に同行した。
政岑は高田藩では心を入れ替えたのか内政に励み、自身も倹約に努めた。
それもあってか、ひ孫である榊原政令は藩財政を立て直した名君として讃えられたほど。
高田藩といえば、戊辰戦争では官軍に恭順するも、戦後、降伏した会津藩士を預かり情を持って手厚く保護したことで知られている。高田には今も「会津墓地」があるため、幕末ファンにもおなじみであろう。
しかし、転封後すぐの翌年には政岑が亡くなってしまい(享年30)、榊原高尾は側室のお岑の方に呼ばれて江戸に戻る。(榊原高尾は「越後高尾」とも呼ばれるが、越後在住期間が非常に短いため一般的ではない。)
高尾は特別に正室扱いされていたために大名屋敷に住むことができたらしい。
花売りをしていた本所の川向う、吉原にもほど近い上野池之端の榊原下屋敷にて、連昌院と号して静かに余生を過ごしたと言う。
なお、この榊原下屋敷跡は現在は旧岩崎邸庭園となっている。
ともあれ、同じような場所に戻ってくるというのがまた奇縁に思う。
榊原高尾の墓所でまた驚いた
最後にもっとも驚いたことがある。
私が働く事務所のすぐ近く、徒歩2、30秒ほどのところに、本立寺(ほんりゅうじ)という日蓮宗の寺院がある。
なんとこの本立寺が榊原高尾の墓所だったのである。
よもやこのような近くに関係のあるものだとは思いもしなかった。
なんの案内や説明板もないが、ひっそりと佇む墓石にはたしかに「蓮昌院殿清心妙華日持法尼」との刻字がある。
この本立寺は榊原家の裏方菩提寺である。(代々の正室・側室、女性たちの菩提寺)
このため榊原高尾の墓もここにある。
榊原家代々の正室・側室の立派な墓は別にあるため、高尾が正室扱いだったとは言え、やはり妾は妾だったのだろう。
他には寺の入口近くに榊原高尾の石碑、高田藩抗戦派である神木隊の戊辰戦死之碑もあり、どちらも立派なもの。
もともと、榊原高尾が花売りをしていた重願寺は日本橋から移転してきた寺であり、このあたりには昔からは猿江稲荷別当である妙本寺という日蓮宗の寺があった。
本所猿江に住む住人にとってはこの妙本寺が菩提寺であり、お玉の父娘も檀家であった可能性もある。ともすれば、宗旨の同じ日蓮宗の寺院に弔われたのは、これまた奇縁だなと思う。
点と点が繋がる歴史の妙
そもそも、
- 重願寺の門前市の花売り
- 榊原家の転封
- 越後高田藩
- 事務所近くの本立寺
はそれぞれまったく別の点として読んだり知ったりしたことで、自分の中で意図的に関連付けることはなかった。
これらの点が、意図せぬなんらかの触媒を経て繋がった時の感覚は、歴史ファンの皆さんなら共感いただけるのではないだろうか。ゾクッとする快感のような。
司馬遼太郎もエッセイで似たようなことを書かれていたように覚えている。たしか、所郁太郎についてだったか。資料を読むと何かと所郁太郎が出てきて「また君か!」と思った旨を書かれていたはず。
というような感覚をお伝えしたくて、ダラダラと勢いで書いてしまった。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。