僕とラーメンと水戸のご老公

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どうも。株式会社まぼろしの松田です。
この記事は「ラーメン Advent Calendar 2013」19日めの記事です。

高田馬場「べんてん」

高田馬場 べんてん

高田馬場にある「べんてん」に行ってまいりました。実に2年以上ぶり。気取らないたたずまいは健在でした。

オーダーしたのはベーシックな「ラーメン(750円)」。いわゆる大勝軒系のラーメンで、本家を超えた逸品だと思います。

ラーメン 750円

大きめのチャーシューにたっぷりのメンマ。おいしかったです。トッピングで追加できる自家製メンマはすぐに品切れになるくらい美味しいのでオススメです。

日本ではじめてラーメンを食べたのが水戸黄門

いきなりですが、ラーメンネタということで。
この逸話というか記録に残っている範囲では事実なんですが、割と有名なんで皆さんご存知かと思います。

このことは、皆如院日乗上人の「日乗上人日記」に記されておりますし、横浜のラーメン博物館にはこの水戸黄門が食したであろう日本初のラーメンのレプリカが展示されていたりしますね。行ったことないけど。
なので、当記事のこの後は「ラーメンと水戸黄門」について好き勝手に書くこととします。
この後を読み続けるのは苦行になりかねませんので覚悟してください。

水戸黄門こと徳川光圀公

水戸のご老公

若い頃の辻斬りは楽しゅうてな!カッカッカッ!

かの国民的時代劇により、だれでもその名を知っている水戸黄門こと徳川光圀公ですが、どういった人物かご存知でしょうか。まずは予習しましょうか。

徳川光圀は徳川御三家のひとつ水戸藩の第2代藩主。江戸幕府の始祖・徳川家康の孫にあたります。

時代劇で有名な「天下の副将軍」という役職は実際にはなく、水戸藩主は将軍を代理する義務があり江戸に常駐していたため、そうあだ名されたものです。

なお「黄門」というのは本来「黄門侍郎」といい、日本の官職「少納言」の唐名です。水戸の光圀さんの官職が少納言だったから「水戸黄門」ですね。参議だった蒲生氏郷を「会津宰相」と呼ぶのと同じです。

ちなみに、水戸藩は御三家の中では最も家格が低く、尾張・紀州家は将軍後継権を持っているのに対して水戸徳川家は正式には持っていません。(水戸徳川である15代将軍の慶喜は御三卿の一橋家へ養子に出てからの将軍就任)その代わり、水戸藩は参勤交代を免除されていたりしました。

まぁ水戸藩の話はどうでもいいです。
黄門様の話に戻りましょう。

黄門様の意外な人物像

時代劇の黄門様はそれはもう好々爺でしたが、実物は真逆。

それはもうパンクです。基地外です。まぁまだ戦国の気風が色濃い時代なのでさもありなん、かもしれませんが。
以下にガイキチな逸話を列挙します。

辻斬り大好き
若い頃は札付きの不良ってな感じだったらしく、刀の試し切りのため辻斬を繰り返していたそうです。防衛ではなく快楽殺人
説によると50人以上斬り殺しているとか。しかも屈強な武者を多数引き連れての行為です。悪代官よりも悪ですね。
遊郭大好き
上記と同じ頃、吉原の遊郭に通いつめていたそうな。女性モノの着物を羽織り、いわゆる傾奇者の格好をして派手に遊んでおり、藩主になってからも女癖は収まらず、吉原だけでなく浅草、千住、湯島の遊郭にもこっそり通っていたとか。
そのせいか、まだ衆道(男色)の文化が色濃かったこの時代に「女色は、衆道と違い男女双方が気持ちいい。政治もそうあるべき」とかそれっぽいことを言ってたりする。それっぽいことを。
生類憐れみの令ガン無視
当時の将軍・徳川綱吉の発布した「生類憐れみの令」。お犬様を大事に!なアレです。黄門様はアホくさいとばかりにこれを無視。
無視するだけならまだしも、将軍・綱吉に対して「オレ、お犬様殺しちゃったわー」と犬の毛皮をあてつけに献上したという噂まで。性格超悪いですね。
やっぱ血の気が多い
4代将軍・徳川家綱が11歳で将軍職を継ぐとき、諸大名に向かって「お前ら。(将軍が幼少のため)天下を狙うものは機会だぞ。まぁこの光圀がフルボッコしてやるから、かかってこいや!」と啖呵を切ってます。
が、彦根の井伊直孝に「家康公より先陣の誉れをいただいているのはこの井伊家です。水戸家ではござりませんな」と言いくるめられて、ぐぬぬ、となったそうです。
これにより水戸と彦根の仲は超絶悪くなり、幕末に至って桜田門外の変の遠因となります。ウソですが。

学問にハマる

とまぁこんな悪行三昧な光圀くんですが、歴史書『史記』に出会って感動。
学問好きへと一変します。

「オレも日本の歴史をまとめたい」と、かの有名な『大日本史』の編纂を開始。以後、編纂事業は水戸藩の一大事業となり、財政を傾けるほどお金をつぎ込んでいきます。

純粋なきっかけは「戦国の世に生まれて武功を立てたかったけど、そんな時代じゃないし、書物でも書いて有名になりてぇ」だったそうですが。

ちなみに、光圀自身は全国漫遊はしておらず(江戸・水戸・日光・鎌倉だけ行ったことがある)、助さんのモデルとなった家臣の佐々(介三郎)宗淳を全国に派遣して資料収集をさせていました。

黄門様にラーメンを食わせた、明の儒学者・朱舜水

そんなこんなでいきなり学問に目覚めた黄門様。様々な学者を集めて囲う、招聘マニアになります。

中国では明朝が事実上滅亡し、清朝が勃興しておりました。明朝の皇族や遺臣は亡命王朝である南明朝を作り復興運動を起こします。

南明には鄭成功という重臣がおりまして、この鄭成功が中国人と日本人のハーフ、しかも日本の平戸で生まれ、7歳まで住んでいた縁もあって、日本に救援要請を求めます。この時に日本に外交官として派遣されたのが件の「朱舜水」。

ところでこの鄭成功、台湾や日本では英雄として人気があり、歌舞伎の「国姓爺合戦」の主人公となっていたりします。司馬遼太郎の『大盗禅師』でも重要人物となっています。

結局、明の復興運動は失敗に終わり、朱舜水は日本に亡命
ここで見を光らせたのが学者招聘マニアとなった光圀公。高名な学者であった朱舜水を招聘し江戸に定住させます。

朱舜水

朱舜水「時代劇の水戸黄門に、ワシ出てきたっけ?」

ここで朱舜水が中華麺を調理し、光圀公に献上したのが日本におけるラーメン史の始まりとされています。

ようやく日本初のラーメンにたどり着きました。
前置き長かったね。すまん。

当時のラーメンは今と同じくスープに鶏や豚の出汁を使ったそうですが、五辛という薬味が必須で、これにより味は薬膳料理に近かったとのことです。

光圀公自身、朱舜水からラーメンの調理方法を学び家臣などにも振る舞ったとのことですので、相当気に入ったのでしょう。
ただ当時は生類憐れみの令の発布真っ最中なので、鶏や豚の出汁を家臣どもは超嫌がったに違いないですが。

水戸市では、この当時のラーメンを再現したものを提供するお店もあり、またネット販売もされていますのでご興味のある方は是非。

ちなみに光圀公、元々うどんを打つことが趣味だったりと料理が好きだったようで、日本で初めてチーズを自作したりもしています。(牧場を作ってまでして)

ラーメンが取りなした歴史の妙

とまぁ、朱舜水、時の副将軍である徳川光圀公の胃袋をまんまと掴んだわけでして、その後の光圀と舜水はそれはもう蜜月でございます。(ラーメン以外にも餃子や牛乳酒も食べさせたらしい)
実はこの出会いが、後の日本の歴史に多大な影響を与えているんです。

南朝的「忠義」感の定着
おれ大楠公。足利にはよくウンコ投げつけてやったものよ。

おれ大楠公。足利にはよくウンコ投げつけてやったものよ。

この朱舜水、日本に来てから「太平記」の歴史に出会い、南朝方の楠木正成の忠義に感銘を受けています。おそらく先述の鄭成功を彷彿したのでしょう。実際、直臣でもない身上ながら皇に忠義を尽くすところ、なんとなく生き方が似ています。あと同じ“南朝”だし。
光圀は朱舜水に学んでおり、この南朝を正当とする忠義感に多大に影響されています。これの忠義感・正当性の考え方が後の水戸学にも影響し、さらに幕末に拡大して全国で定着するようになります。
ちなみに、この南朝正統論は未だに議論になったりします。(現皇室は南朝の血統ではない、とか)

「大日本史」と水戸学のコンセプト
北畠親房

北畠親房「むしろ、オレが朱舜水の師匠だろうが」

上記の影響もあり、大日本史では南朝正統論を唱えているのがひとつの特徴となりました。日本古来の大義名分を明確にするコンセプトとなっており、つまり、南朝正統論、ひいては天皇を唯一無二のトップとする尊皇論をもって全体が書かれています。
朱舜水の忠義感、および北畠親房の「神皇正統記」の影響がベースとなっているわけですね。
このコンセプトがいわゆる「水戸学」へと昇華します。
「大日本史」は歴史書というよりも水戸学における思想書、と言えるわけでございます。ただ幕府の全盛期ですし光圀公自身も徳川の血統ですので、別に「幕府ダメ。倒幕だ!」という考えはもちろん含まれていません。あくまで「日本古来のあり方」がテーマになっているだけで、これを幕末の水戸学と区別しまして前記水戸学といったりします。

忠臣蔵の赤穂浪士が受けた影響
忠臣蔵

ちょっとジジィいじめてくるわ

同じ頃に、山鹿素行という軍学者がおりまして、忠臣蔵の大石内蔵助の師匠さんに当たるお方でございます。山鹿流軍学で有名なお方ですね。
この素行さん、学者マニアの光圀公と深く親交しており、朱舜水と同じく一時的に大日本史の編纂にも関わったこともあったとか。ということで朱舜水の思想・忠義感に影響を受けておるわけです。
著書『聖教要録』において幕府の正学である朱子学を批判した罪で赤穂へ流謫となり、ここで藩家老の大石内蔵助をはじめ、赤穂藩士の教育を行うこととなります。
この赤穂時代に、皇統の一貫をテーマとした『中朝事実』という歴史書を著しており、思想的にも朱舜水および水戸学の影響を色濃く受けていることが伺えます。
この忠義感を教えこまれた赤穂四十七士が、義士とはこうあるべきだぜ! と「元禄赤穂事件」「忠臣蔵」を引き起こすことになります。
朱舜水の思想が起爆剤になった歴史の一コマですね。

幕末における水戸学の影響
光圀公と朱舜水が起こしたとも言える水戸学のベースは先述のとおり「尊王論」。
(ちなみに、天皇は「王」であって、将軍は「覇」となります)
水戸9代藩主である徳川斉昭が、水戸学者である藤田幽谷・会沢正志斎・藤田東湖らを重用したことで一気に全国に広まります。これがいわゆる後期水戸学。
外夷襲来という未曾有の国難に突入したこの時代、「大事なのは藩でも幕府でもない。日本そのものだよねー」とこの日本古来の大義名分を重んじる思想が幕末の志士たちに大受け。尊王攘夷思想の聖書になりました。
吉田松陰と朱舜水
吉田松陰

どうも童貞です。

神戸の湊川神社には「大楠公ご墓所」として、先述の楠木正成の墓碑があるのですが、碑石の裏面には朱舜水の書いた大楠公を称える賛文が刻まれています。(参考 : 神社の由緒|湊川神社(楠公さん)-神戸市中央区
大楠公のファンだった吉田松陰はこの墓所にもちろん参拝しており、以下のように日記も残しています。

私は、かつて東方へ遊行し、三度も湊川を通ったが、そのさい、楠公の墓に参拝し、涙が落ちるのをとめることができなかった。その碑の背面に、明の朱舜水が書いた文を読んで、また涙した。
(『日本の名著・吉田松陰』中央公論社)

というわけで、松蔭はじめ、彼に影響された高杉晋作、桂小五郎、西郷隆盛などの志士たちもまた、朱舜水の思想に感化されたと言っても過言ではないわけです。

朱舜水と陽明学
幕末における後期水戸学のことを理解しようとするのであれば、儒教における思想体系である「陽明学」、同じく「朱子学」を知る必要があります。陽明学は何よりも実践を是とする学問ですので、行動派の人物に好まれました。格さんのモデルとなった安積澹泊、大塩平八郎、山田方谷、佐久間象山、河井継之助、吉田松陰などビッグネームがこの学派ですので、まぁその程度は計り知るべしですね。陽明学については長くなるのでまたの機会に。

ラーメンと朱舜水は日本の歴史を変えた

そんなこんなで、ラーメンを水戸黄門に食わせたおっさんこと、朱舜水の偉大さがお分かりいただけたでしょうか。

特に幕末の討幕運動・明治維新においては、この朱舜水が水戸黄門にラーメンを食わせた瞬間に起源をすら感じます。

今や国民食の地位さえ得たラーメンを日本にもたらし、忠義における思想感を定着させたという朱舜水の功績。

僕はラーメンを食べるたびに、これらの日本が経てきた歴史、明の復興に掛けた朱舜水のことを思い、心打ち震えるのです。そんなことはありませんが。
つまり、江戸中期以降の我らが神国日本の歴史はこの薬膳臭いラーメンとの出会いに始まったと言えなくもない、いや言えないと言えるでしょう。

まとめ

水戸黄門が懲らしめた悪代官の数は、幕府が任命した全代官の数の 5.7倍。 つまり、一人当たり5回以上懲らしめられてる計算。

だってさ。さすがのジェノサイダー黄門様。

あ、高田馬場の「べんてん」、おすすめです。

ラーメンのアップ 以上、「ラーメン Advent Calendar 2013」19日めの記事でした。おわり。

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