2016年の大河ドラマ「真田丸」をより面白く観るために、真田一族の縁の地を知る(幸村関係ないけど)

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sanadamaruさて、様々な物議をかもした2015年の大河ドラマ、えーとなんだっけ、まぁいいや。

皆さんのご興味はすでに、というか相当早くから2016年の大河ドラマ「真田丸」に向いていることと思います。

戦国時代最強の一発屋ヒーロー、真田信繁(幸村)が主人公、三谷幸喜脚本ということもあって前評判は上々。もちろん私も大変楽しみにしておるわけです。

特に、1985年に放送された「真田太平記」(NHK新大型時代劇)にて幸村役を演じられた草刈正雄さんが今回はその父親である昌幸役ということで、おっさんとなったファンへのホスピタリティにもグッとくるものがあり、いかにも胸熱です。(丹波哲郎さんの昌幸を超えてもらいたいですな。くるみカリカリするかなぁ。)

ということで、「真田丸」がはじまる前に恒例の予習としけこみやしょう。

今回は人物紹介はやめておき、「真田にとっての縁の地」を基軸として紹介します。(登場人物がビッグネーム過ぎて、方々からのツッコミが怖い、ってのが正直なところ…)

真田一族が拠点的にどういう位置関係に在していたかを知っておくとさらに本編が面白く感じられるでしょう。たぶん。

それでは、をぉぉぉぉやくわぁたぁさむぁぁぁぁぁ!!!

真田発祥の地「小県」と川中島の戦い

真田氏の発祥そのものははっきりしていないものの、真田幸隆(幸村のおじいちゃん)が信濃国小県(ちいさがた)郡真田郷にある洗馬城、そして真田本城(別名・松尾城)を拠点として真田氏を称したことにはじまるとされています。なお、この小県郡にはのちの拠点となる上田も含まれています。

ちなみに、これ以前の真田氏については文献として記述があるものの関係性が明確ではないようで、よく分かっていないようです。

そもそも真田幸隆の父さえもはっきりしておらず、真田頼昌または海野棟綱が真田の始祖とされています。とにかく、信濃の名族・滋野三氏のうち海野(うんの)氏の傍流として、信濃小県郡の豪族としてずっと土着していたっぽいということですね。

ところが隣接する葛尾城の村上義清にこの小県一帯を攻め取られ、真田の支城であった戸石城は村上の拠点となります。
幸隆は上野国に一旦避難しますが、後に武田信玄のもとへ帰参。

ちなみにこの村上義清、武田信玄を2回もボコボコにしている強いお方。(戸石崩れで有名ですね。)

その後、信玄の命を受けた幸隆が調略で義清を破り小県を奪還しています。この頃の幸隆は40歳前後。

ここで村上義清が上杉謙信の元に逃れまして、

「信濃全域を手中に収めたい信玄」と「せっかく奪還した小県を守りたい幸隆」
VS
「北信濃の縁戚を助けたい謙信」と「小県をもう一度奪いたい義清」

kawanakajima

の図式となり、これが川中島の戦いに繋がるわけです。

つまり、幸隆が信玄に帰属したことこそが、幾度の川中島の戦いの発端となったと言ってもいいでしょう。

ということで、もっとも激戦となった第四次合戦の頃の勢力図で見てみましょうか。
真田本城、川中島、義清の葛尾城と戸石城の位置関係を見てみましょう。

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ぎゅうぎゅう。

武田領、上杉領、ときどき北条領のはざまです。激戦区。
(なお、第二次川中島合戦の頃以降「甲相駿三国同盟」が成立しており三つ巴状態にはなっていません)

これより川中島にほど近い真田本城を拠点とする真田氏はこの長い戦いにおいて武田の先鋒(信濃先方衆)となるわけです。がんばれ幸隆くん。

この頃の幸村くん この時まだ生まれていません。関係ないですね。

真田といえば信州「上田」

幸隆とその息子の信綱昌輝、昌幸は、川中島を含む信州、上野、駿河など各地を転戦。

幸隆は戦国三弾正のうち「攻め弾正」とあだ名され、また、次男の昌輝は信玄をもって「兵部は我が両眼なり」と評価され、親子4人で武田二十四将にも数えられるようになるなどチートファミリーのはじまりですね。

ところが、幸隆の没した翌年の1575年、長篠の戦いにて信綱と昌輝が戦死。
3男の真田昌幸が家督を継承します。きたわー。

この頃の幸村くん まだ8歳。関係ないですね。(大河ドラマ、ここくらいからスタートするんでしょうかね)

その後、織田の甲州征伐によって主家たる武田も滅亡。
真田昌幸は織田に臣従して本領安堵となりますが、3ヶ月後には本能寺の変により当の信長が横死。

これにより織田軍が武田旧領から撤退し、甲斐・信濃・上野にて混乱状態になります。
北条・徳川・上杉が、それいまだ!刈り取れー!とばかりに入り乱れる「天正壬午の乱」が勃発。
この甲斐・信濃の混乱に乗じて、昌幸はすぐに武田の遺臣を集めて勢力を拡大・温存します。

この時の昌幸は、信州に進軍してきた上杉謙信に一旦臣従しますが、翌月には北条氏直側にひるがえります。そしてその2ヶ月後には徳川家康に接近し臣従。

この頃の真田の臣従関係を整理すると、本能寺の変のあった1582年から1585年の約3年間強において

1582年3月〜1582年6月 (武田が滅ぼされて)織田信長に臣従
1582年6月〜1582年7月 (信長が死んでしまったので)上杉景勝に臣従
1582年7月〜1582年9月 (北条への最前線に置かれ一旦降伏し)北条氏直に臣従
1582年9月〜1585年7月 (やっぱり最前線のため徳川に急接近して)徳川家康に臣従
1585年7月〜1585年12月 (徳川から領地移譲しろと言われケンカ別れ)上杉景勝に臣従
1586年1月頃〜 (嫌がらせしてくる徳川をボコっていたら、上洛せよと呼び出されて)豊臣秀吉に臣従

ということになります。

ひらりひらりと激戦区を舞う昌幸。

特に1582年に挙動が目を引きます。上杉、北条、徳川の三つ巴をかわしまくり。
いかにも「表裏比興」ですね。不器用さの欠片もない。

で、上記の徳川臣従期に本拠地を上田に移し、1583年に上田城を築城します。
(賤ヶ岳の戦いを秀吉が制し、大坂城が築城開始されるのもこの年です)

この後2回も徳川をボコることになるように(上田合戦)、当初から対徳川を意識して南側の防御の厚い縄張りにしたようですね。
ここに真田の本格的な自立が始まります。

上田への移転時の勢力図を見てみましょう。

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徳川が入り、新たな三つ巴の激戦区となりました。

真田としてはどこに転がっても最前線としてたらい回しにされてしまう、という普通の人間なら精神を病みそうになる勢力状況の土地です。
まぁ、これより「真田といえば上田」ですね。

この頃の幸村くん 上田城への移転時はまだ初陣もしていない15歳。関係ないですね。

真田の鬼門。それが「沼田」

とまぁ、真田の本拠といえば上田、になるわけですが、実はキーポイントとなるのが上州は「沼田」

上杉と北条で散々取り合っていた地ですが、昌幸が武田勝頼存命時代に北条領であった沼田城を調略をもって制圧し武田領となります。武田が滅び織田が撤退した後、そのまま真田領となりました。
つまり、昌幸が自分で切り取って手にした土地、ということになります。

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先述の通り、本能寺の変後に起こった天正壬午の乱において、上杉や北条の間を転々とし、それぞれ前線の先鋒や殿としてこき使われた昌幸は徳川への臣従を選びます。嫌気が差したんでしょうかね。

ところが、徳川は北条とのと和睦・同盟を進めます。この頃の家康は秀吉との小牧長久手の戦いも行っていますから、後方の安全確保を急ぎたかったのですね。

ここで家康からの無理難題。
家康は、北条との同盟締結の条件として「沼田やるから同盟してよ」と勝手に交渉していたわけです。自分の領地でもない土地を。

「北条がさー、同盟したかったら沼田はよよこせってさー、いうわけ。だからさー、タダでよこせやー。」

と昌幸にカツアゲに等しいことを言ってくるわけです。

昌幸は「アホ言えや!沼田はワシのもんじゃー!」と怒り心頭。再び上杉のもとへ鞍替えするわけです。むしろ徳川からの離反のきっかけとして逆手に取った、とも言えそうです。
これが真田と徳川の因縁の発端。

この真田の離反に対して徳川が討伐を起こしたのが「第一次上田合戦」。
2,000の兵の真田が7,000強の兵の徳川をボコボコにしたアレ。徳川は1,300以上もの死傷者を出すこととなり、家康のビビリストたる「真田コワイ」がここにはじまるわけです。

徳川臣従期に本拠を上田に移したのも、徳川から離反して撃退するためだったとも言われています。

この頃の幸村くん 上杉景勝への人質として春日山城に在していたので、やっぱり関係ないですね。

またおまえか、「沼田」

当時、すでに豊臣の時代。
上杉・北条・徳川の間を転々とせざるを得ない土地的状況から、昌幸は豊臣秀吉に臣従します。
豊臣を後ろ盾とすれば、すでに豊臣に臣従している上杉・徳川からは身を守ることができますから。

もとより秀吉から昌幸へ上洛の要請はあったのですが、上杉・北条・徳川の狭間にあった状況下では離れるわけにもいきません。なんとか臣従表明は行い、幸村を人質に出して、晴れて豊臣臣下となりました。

ちなみにその際、幸村くんは上杉の人質でしたが、上杉景勝が上洛で不在中の春日山城から無断でこっそり逃がしており、景勝を激怒させたそうな。昌幸は人を怒らせるのも天才だね。

さて、先の真田・徳川・北条の沼田移譲問題
天下人・秀吉によって裁量され、利根川を挟んで東側は北条に割譲されることとなります。

川東の沼田城は北条のものとなってしまいますが、川向かいの名胡桃城はなんとか安堵されることとなりました。
秀吉としても、沼田は真田のものと分かっていますが、北条を懐柔させるために相当の好条件を出したわけです。

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真田領として残った名胡桃城はもともと沼田城の支城であり、5kmほどしか離れていません。

1589年、この名胡桃城を沼田城代となった北条家臣の猪俣邦憲がを策略を持って落としたことが、惣無事令違反(私的な戦、禁止ね)として秀吉の怒りを買い、結果「小田原征伐」の直接の原因となりました。これがいわゆる名胡桃城事件

この名胡桃城事件ですが、事件の経緯は不明な点が多く、十分に解明されていないのが現状です。

事件発生時、昌幸は京の秀吉のもとにおりましたから、両名合議による戦略として、北条を挑発した説もあります。
要は、どっちみち北条は完璧に潰すものとして、その名分を得るために、あえてオトリ的に沼田だけを北条に割譲した、と。北条を潰した後、秀吉は沼田を改めて昌幸に与える段取り、という前約束的な感じですね。昌幸と秀吉なら如何にも考えそうな策だとは思うのですが。

しかしながら、豊臣に臣従する姿勢を見せていた北条の内部としても、反豊臣派はそれなりに幅を利かせていましたし、事件後にも当の猪俣邦憲が別段罰せられていないことからも、単に秀吉の裁量への不服から自発的に起こしたものとも言えそうです。

どちらにせよ、またまたこの沼田が戦国史のターニングポイントとなりました。
つまり、秀吉の天下統一の総仕上げ・小田原征伐は真田と北条の因縁が発端となったということです。

小田原征伐の後、沼田は嫡男・真田信幸に与えられ、無事、再び真田領として復活しました。

信幸が正室として本多忠勝の娘・小松姫を迎えたのは、この頃より少々前のこと。
昌幸としてはこの時ほどから豊臣と徳川の両方についておくことを想定していたのではないでしょうか。
ちなみに、井伊直政が信幸のことを大変評価しており、それを家康に伝えたところ、小松姫を家康もしくは秀忠の養女としてから、信幸に娶らせるようになった経緯があるようです。やっぱり家康さんは直政くんに甘いなぁ。

この頃の幸村くん 小田原征伐に従軍しています。石田三成の忍城攻めにも参加したとのことですが、まだ表舞台にも立っていませんし、やっぱり関係ないですね。

ドラマのクライマックス

さて、秀吉も死に、関ヶ原の戦いへ。
昌幸、第二次上田合戦にて徳川をまたまたボコるも、西軍が敗戦。

西軍についた昌幸と幸村は紀伊国の九度山に配流となります。(家康は処刑するつもりでしたが、信幸の義父・本多忠勝の懇願で流刑で済みます。)

一方、東軍についた信幸(この頃に信之に改名)は沼田に加えて、父と弟のいなくなった上田を治めることとなります。(上田合戦のおり、真田の戸石城を落としたのも信之です)
なので、真田領そのものとしては変化なしですね。

ちなみに、関ヶ原の戦前、小松姫が孫に会いたいとやって来た昌幸を「じじぃ、いねや」と追い払った逸話の舞台も沼田です。

この頃の幸村くん 第二次上田合戦では父とともに策を練り、敗戦後も葛尾城に攻め込んでいたりと真田の要になりつつある頃。ようやくだね。

九度山からニート親子(昌幸・幸村)で出来のいい息子(信之)に対して金品をたかったり、大谷吉継の娘に真田紐を作らせたり、幸村が近隣の女に手を出したり、などそれなりに楽しんでいましたが、1611年に昌幸が死去。

1614年、幸村は豊臣家の要請に呼応し、九度山を脱出。息子の大助とともに大坂に入城します。

大坂の陣のはじまり。
まぁ結果はご存知のとおりですし、ドラマでも「真田丸」のタイトルどおりクライマックスでしょうから、ここは割愛です。

この頃の幸村くん 「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」。がんばったね、幸村くん。歯がないのによく踏ん張ったよ。

またまた「沼田」か。ぬまたぁ

大坂の陣も終わり、ここから信之のターン。
信之は松代藩に移封となりますが、沼田は真田領としてそのまま残ります。(その後の上田藩には仙石氏が入ります)

江戸期以降は「真田といえば松代」ですよね。川中島のほど近くです。

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松代移封の際、松代には信之が入り、沼田にはその嫡男・信吉を入れました。

ところがほどなく信吉が死去。その嫡子の熊之助も死去。今度は信之の次男・信政が沼田に入ります。

この頃の幸村くん 幸村くんが幼いころ、上杉へ人質として入る際にこの松代城(元は海津城)に在したようですが、江戸期にはとっくに死んでるので、もちろん関係ないですね。

その後、信之が隠居し、家督を次男・信政に譲ります。
もちろん当主となった信政は松代に移りまして、沼田には信吉の次男・信利が入ります。

当主となった信政がほどなく死去してしまいます。
信之は、まだ2歳だった信政の六男・幸道に跡を継がせることにします。

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沼田の信利はこれを不服として幕府に申し立て、お家騒動が起こります。
真田の嫡流の血を引く俺が継ぐべきだ、と。

が、幕府の採決は幸道を後継とし、代わりに松代の支藩であった沼田を藩として独立することとしました。信利は真田本家は継げませんでしたが、一応独立できたわけですね。

信之はこのお家騒動が執着した直後に死去します。
享年93。長生きでしたが、この「信濃の獅子」も晩年はさぞ胃が痛かったでしょうね。

さぁここからです。
やっぱり安定の沼田。

沼田の信利は、独立はしたものの本家を継げなかったことに不服ですから、本家である松代にただならぬ対抗心と嫉妬心をもっておりまして、なにかと張りあうようになります。

10万石の松代に対して、実質3万石の沼田。

信利は「松代むかつくわー。マジむかつくわー」とばかりに意味のない対抗意識をもち、14万4千石と偽り届け出てお財布事情をごまかし、分不相応な5層の天守を作るなど、見栄を張る子供のような喧嘩を一方的に繰り広げます。
当の松代本家は相手にしてなかったと思われますが。

財政事情を無視したこうした信利の悪政に、藩の資金は底をつき、領民には相当の重税が課せられることになりました。

このため領民からも幕府へ直訴され、治世不良の責務を問われ改易されてしまいます。
沼田城は廃城となり、悪政を敷いた沼田藩そのものも廃藩とされてしまいましたとさ。

ドラマでも沼田に注目かもしれません。関係ないと思うけど。

このように、昌幸が苦労して切り取り、それ以上に苦労して守りぬいた沼田は、真田自身の血(曾孫の信利)によってあっけない終わりを告げました。

昌幸パパ浮かばれないですね。

昌幸が沼田にいかほど執着していたかは、池波正太郎の短編『命の城』でも題材とされています。

『命の城』は以下の様な文からはじまります。

「沼田の城をな、北条へゆずりわたしたときには、ほんにほんに、さすがのわしも泣き暮らしたものじゃよ。おぬしたちには涙も見せなんだが、夜、臥床へ入って独りきりになると、くやしゅうて情けのうて、わしは臆面もなく、ほろほろと泣いたものじゃぞよ」
と、後年になってからだが、真田昌幸は信幸・幸村らの二子へ、一度だけしみじみと洩らしたことがある。

池波正太郎『命の城』の冒頭文

本当に浮かばれないですね…

沼田の城自体は、ドラマの主人公である真田幸村とはそれほど関連のある城でもありません。

ただ、真田一族として見た場合、これほどドラマを感じる城はないのです。
ドラマでも沼田がどれほど出てくるのか分かりませんが、これらの背景を念頭に置いてみる来年の大河はまた一味変わってくるかもしれませんぞ。

そうだ 沼田行こう。 幸村関係ないけど。

というわけで、ひねくれものの皆の衆は、上田や松代はすっ飛ばして沼田に行こう!

一応、群馬県沼田市でも「もうひとつの真田の舞台」として、市をあげてアピールしているようです。

ただ、この沼田という土地自体、先述のように真田によって悪政を敷かれた歴史があるためか、それほど真田に思い入れがあるわけではなさそう(というか暴君的扱いかな)で、アピールのWebサイトの方もイマイチ盛り上がり感に欠ける気がします。(関係者の方いらっしゃったら申し訳ないです。)

沼田市サイト

でもそんな不器用さがいいよね、ということで、沼田に行きましょう。

幸村関係ないけど。

 

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2016年の大河ドラマ「真田丸」をより面白く観るために、真田一族の縁の地を知る(幸村関係ないけど)” への4件のコメント

  1. 今年のつまらなかった大河ドラマのせいでいつもアルコールが過ぎてうっかり寝過ごしてしまうクセがついて困っています。来年の真田丸おおいに期待しています。なんとかこのクセがおさまるといいのですが。?小生、中国の歴史も好んで勉強したんですが、魏蜀呉の三國志の時代と共通するような時代背景のような気がします。というのは諸葛孔明の兄弟が呉にもつかえています。真田昌幸はこのことを知っていたんだ思います。ですから中国の歴史と重ねあわせて考えるとおもしろいと思います。なんとかアルコールを少し控えて楽しみたいと思います。

  2. 自分は群馬出身ですが、群馬はどこの武将が強い!とか、出身の武将はコイツだ!みたいな教育が全くと行って良い程ないので県民にとっては馴染が薄いのでどう盛り上がったら良いのか分からないのかと。
    私も真田丸で群馬の城が取り上げられていたのをキッカケに、そーいや沼田も真田領だったなぁ。中学のプレ修学旅行は上田城に行ったなぁ…って、アレは真田を巡る旅行だったのか!と、中学卒業して10年以上経った今になってやっと繋がった程度です。
    でも、こうして真田丸で取り上げられて市民の間に沼田城の歴史認識が広まれば、もっと盛り上がっていくのではないでしょうか?少なくとも私は群馬も長野も、というか関東と関西をまたいで様々な地域に話題提供してくれる真田丸と、それにまつわる歴史をご教授くださるこのサイトのお蔭で盛り上がっています。ありがとうございます~

    • ありがとうございます!
      今回の大河では、しっかり上野の重要性も描かれていて、歴史ファンとしてはうれしい限りです!

  3. 今回の大河は中々掘り下げられてるようで面白いですね。
    ところで記事中の記述なのですが
    >幸隆は戦国三弾正のうち「攻め弾正」とあだ名され、また、次男の昌輝は信玄をもって「兵部は我が両眼なり」と評価され、親子4人で武田二十>四将にも数えられるようになるなどチートファミリーのはじまりですね。
    この、昌輝をして「兵部は我が両眼なり」という記述はいずれの文献にあるのでしょうか?
    安房守昌幸と曽根内匠を両眼としている一説は甲陽軍艦にハッキリ記載がありますが、兵部とする文献は未だ知りません。
    是非ご教示いただければと思います。

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