東北や北関東なんて、大名間でもほとんど血縁ですし、羽柴や蒲生のように名字を与えまくる例もあります。九州では、大友家なんて家中はおろか家臣までもほとんど血縁ですからね。
と、そんな中にも意外な関係性もある訳です。
意外な関係というと、あれか、「真田信繁(幸村)は、本多忠勝の親戚で、かつ、豊臣秀次の義理の息子」みたいなのか?
「細川忠興と黒田長政は、超仲が悪い」とか。「伊達政宗と浅野長政は、超仲が悪い」とか。
それは有名すぎて、意外でもなんでもないっしょ。
なんで、仲が悪い系が好きなんよ?キミは。
仲が悪い的な関係の方が、メシウマでいいじゃねーか。
じゃー、あれか?「織田信長の織田氏は、本来、守護の越前斯波氏のもと、朝倉氏と同僚だった」的な?
うーん、そういう系。まぁ、それも、織田信長に対して、朝倉義景がその事実を持ち出して大々的に文句言ってるし、意外でもなんでもないって。
じゃー、これは?
「菅総理は、菅原道真の子孫!」てのは。菅原道真の曾孫資忠の系譜が、美作菅党の祖となり、岡山出身の管総理の系譜に繋がる。
なるほどー。て、戦国時代関係なくなってるし。
つーか、現代においては、血筋の良さって意味ないんだね、ってのがよく分かるな。
( ;∀;) イイハナシダナー。
てことで、我々歴史雑談録が、その拙い知識の中で意外と思われる関係をご紹介しましょう。
「心頭滅却すれば」で有名な快川紹喜の孫弟子が、伊達政宗
「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世を残したとして有名な臨済宗の僧、快川紹喜。
美濃の崇福寺住職だったころに武田信玄に招かれて、甲斐の恵林寺に入寺するような、偉いお坊さんなんですが、その弟子の弟子が、かの伊達政宗。
政宗君は、一体なにを受け継いだんでしょうか。。。
快川紹喜は、非常にパンクな坊さんで、なんというか、こう肝が据わっていた、いわゆる大人な方だったんですね。
信玄の死、長篠の戦いを経て、織田信長の甲州攻めの際、かつて信長に敵対した六角義弼らを恵林寺に匿います。
「寺は聖域。安全安全。やれるもんなやってみろー。バーカバーカ」と。
過去、比叡山をバーニングしているような信長ですからね、こんな理屈が通る訳がないですが、甲州攻めの総大将は、息子の織田信忠。そこまでしねーだろ、と踏んだんでしょうかね。
織田信忠は、六角義弼を引き渡すように紹喜に要求しますが、これを拒否。
すると、そこは織田家のご嫡男・信忠様。父の偉業を見習い、恵林寺ごとバーニング。さすがです。織田家の嫡流のみが受け継ぐ、超必殺技。
快川紹喜、逃げることなく焼死を選びます。この時に残したのが「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」という辞世と言われております。(異説ありますが)
と、こんなパンクな坊さん、快川紹喜の美濃時代の弟子に、虎哉宗乙という、またまた偉い坊さんがおりまして。「天下の二甘露門」と称された立派なお方です。
この虎哉宗乙が、政宗の父・伊達輝宗に招聘されて、政宗の家庭教師となったんですね。いいパパだなぁ。
政宗5歳の頃から、宗乙が死ぬまで、師弟関係の付き合いがあったそうです。
そんな伊達政宗くん。彼らから何を学んだのか、疑問に感じるくらいの偉業の数々をなしています。全部挙げるとキリがないので、以下、抜粋。
政宗君がやらかしたこと(ごく一部)
- 秀吉の小田原征伐の際、正室・愛姫の実家である田村家には「いいっていいって!参陣しなくていいし!」と言っておきながら、自分は遅刻しつつもギリギリで参陣。結局、田村家は改易。きたねーなぁ。中学校のマラソン大会で、「最後まで一緒に走ろうぜ!」のアレ。
- その小田原征伐では、遅刻を秀吉が激怒し、あわや改易となるところ、死装束で十字架を背負い、秀吉の面前でスーパー謝罪という芸人顔負けのパフォーマンスを披露。秀吉、なにがツボったのか分からないが、思わず許す。しかも本領安堵。
- 秀吉の奥州仕置において、伊勢より陸奥会津に移封された蒲生氏郷に、おとなりさんのよしみで、領内の一揆を煽動。氏郷の食事に毒を盛り、速攻バレて、「あ、用事思い出した」と退散する。
- 秀吉主催の食事会にて、仲の悪かった、佐竹義宣、浅野長政、加藤清正、上杉景勝に、超絶に熱い汁物を出し、4人の唇を火傷させる。熱湯風呂の始祖。
- 大阪の陣の際、真田幸村・毛利勝永隊に襲いかかるも、ボコボコに返り討ちにされる。怒った政宗は、味方の神保相茂隊が前方にいるにもかかわらず、本陣から一斉射撃。神保隊全滅。本人曰く、「前にいる方が悪い」。
- 高価な天目茶碗を手から落としそうになった際、「おどろかせやがって!クソ!」とその茶器を叩き割る。
- 家康から貰った100万石加増の約束状を、反古にされた後も未練たらしく残しておく。しかも、現存している。
- 3代将軍の徳川家光にとても懐かれ、「親父殿」とまで言われるが、馴れ馴れしすぎて、将軍の前で居眠りする。
- あまりにも奇行が多すぎて、細川忠興に「稲荷殿の知音かと申す事に候」(あいつ、キツネに取り憑かれてるっしょ?)と言われる。よりにもよって、あの細川忠興にそう言われる。
と、まぁ、枚挙にキリがない。
政宗君の、奇行じみた謝罪芸、ここぞというときの媚びへつらいの上手さ、これは師匠から学んだんでしょうかね。違うでしょうね。どう教育したら、こんなんなるんすか?
虎哉宗乙も、よくこんなのと生涯師弟として付き合っていたなぁ。
レッツ パーリィ!!!とか、英語も教えていたようで。偉いなぁ。
武田信玄は、本願寺顕如の義理の兄
武田信玄の正室は、三条の方。いわゆる、三条夫人。清華七家のひとつ、三条家の出身です。
本願寺顕如のお裏方(妻)は、如春尼と言うお方。この如春尼も三条家の出身。
つーか、三条夫人が姉、如春尼が妹ということで、姉妹です。
てことで、武田信玄と本願寺顕如は、義理の兄弟ってことになりますね。
あまり知られていないことじゃないでしょうか。
三条夫人の父、三条公頼は、もともと、武田信玄が晴信として元服する時に、京から甲斐に勅使として赴いている縁があります。そこで縁談を決めて、4ヶ月後には三条夫人が輿入れしています。
顕如のお裏方(妻)である如春尼は、三条家が貧乏であったことから、管領の細川晴元の養女に出され、その後、六角定頼の養女となり、顕如の妻となりました。
これが縁にもなって、信玄と顕如は、盟友となり共同戦線をはっていたりします。
信玄は、ライバル上杉謙信に嫌がらせするために、顕如に頼んで、越中・加賀にて一向一揆を煽動させています。
顕如の方は、信玄と仲良くすることで、仏門の敵・織田信長を背後から牽制する形をとっています。
後の足利義昭による信長包囲網作戦には、信玄も参画していますが、これには顕如の仲介もありましたからね。
信玄と顕如という、義理の兄弟仲は良好だったようです。
信玄は、臨済宗として出家していますが、仏教であれば宗派を問わず保護していたので、浄土真宗にも造詣が深かったと思われます。
と、もうあまり書くことがないので、それぞれの夫婦の逸話を。
先述の政宗の師匠の師匠、快川紹喜ですが、三条夫人ともよく会っていたようで、「めっちゃ美しいお方で、信仰心も厚いし、周りのものにも優しいし、春の日差しのように暖かい人柄だし、マジいい夫人」とベタ褒めしています。「信玄公とも夫婦仲よろしいご様子で」とも記しています。ただ、結婚後は実の息子たちに相次いで先立たれたり、妙に不幸な人生を送った方ですね。
一方、顕如の妻である如春尼は、本当に夫婦仲が良かったらしく。坊主のくせに。
結婚31年目の七夕にて、お互い「長年一緒にいるけど、今日の七夕は特別ラブラブ」的な歌を詠み合っています。坊主のくせに。
ちなみに、顕如と如春尼の息子である教如は、本願寺法主を次いだ後、秀吉に隠居を命ぜられ引退。後に家康に擁立されて、東本願寺派の祖となります。
なお、兄が隠居した後に法主となった准如は、異母弟で、兄弟はとても仲が悪かったとか。
あ、あと、三条夫人と如春尼の父、三条公頼は、貧乏の末、周防の大内義隆を頼り下向。陶晴賢の謀反に巻き込まれ、ついでに殺害されました。
てことは、陶晴賢は、武田信玄と顕如にとって父の仇、ってことになります。
これも意外な関係だよなぁ。
大友宗麟と大内義隆は、甥と叔父
西国無双の侍大将こと、陶晴賢の名前が出てきたので、ついでに、大友宗麟と大内義隆の話でも。
陶晴賢が謀反を起こして、自害に落とし込んだ、主君・大内義隆。周防・長門・石見・豊前・筑前の守護を務めた大大名です。この大内義隆の姉、もしくは妹が、キリスト教オタク・大友宗麟の母に当たります。(異説ありますが)
なので、大友宗麟と大内義隆は、甥と叔父ということになりますね。
ついでにいうと、大友宗麟には、大友晴英という弟があり、この母も大内氏だったため、実子の無い大内義隆の養子として迎えられます。その後、義隆に実子の大内義尊が生まれたため、養子関係を白紙にされ、豊後に帰国しています。
が、その後、先述の陶晴賢(当時は陶隆房)が謀反を起こし、大内義隆を自害に追い込み、嫡男・義尊を殺害します。
(そのついでに、先ほどの三条夫人の父、三条公頼も殺害したということです)
謀反後の陶隆房は、対外的な大義名分が必要になりますね。
「いやいや、大内家に対して悪意はないんすよー。義隆様が悪かっただけなんすよー。大内家を裏切るつもりはないんすよー。」といって、先述の元猶子・大友晴英を呼び戻し、大内氏の跡を継がせ擁立します。
この大友晴英が、大内氏最後の当主、大内義長ってことになりますね。
その後、陶隆房は、「新しい殿とは、仲良くやってますよ!ほら、殿の名前の字も貰ったし!」と、対外的にも大内家の安定をアピールするため、大友晴英から「晴」の字の偏諱を受け、晴賢と名を改めています。いかにもわざとらしい。
ということで、大友宗麟は、事実上、室町期からの宿敵大内氏をまるめこむことになり、九州南部への勢力拡大を図れると思った矢先、陶晴賢、つづいて弟の大内義長が毛利元就に敗れ、滅亡。
以後、大友領も毛利からの侵攻に悩まされることになります。
毛利元就も嫡男の毛利隆元を大内義隆の元に人質に出していたりと、戦国期の中国・北九州は大内義隆なくしては考えられないですね。隆元の「隆」の字も、義隆の偏諱を受けたものです。
まぁ、話がそれましたが、
大友宗麟と大内義隆は甥と叔父、ってことで、宗麟の弟は大内の最後の当主で、陶晴賢はその弟から名前を貰った関係となり、その陶晴賢は宗麟から見て叔父の仇であり、毛利元就は宗麟から見て弟の仇であるという、なんかややこしいですが、そういうことです。
詳しい方には、意外でもない関係かもしれませんが。ご存じない方もいらっしゃったのではないかと。
今回は、なんか「陶晴賢」がよく出てくるなぁ。
過去には、こんな記事で、大友宗麟と大内義隆を紹介もしていますので、お暇な方は是非。
大友宗麟 – 今どき切支丹は、クールな洗礼名で自分らしさを演出(笑)
大内義隆 – 思わずツッコんでしまう武将たちの肖像画 10選 (10位〜6位)
名門って言われる家系とか古いお家とか、鎌倉期・室町期まで遡ったりすると、だいたい繋がってるし、言い出したらキリがないけど。
まぁ、こういう間接的な関係を掘っていくのは面白いですよ。
歴史は、年譜的に時系列で楽しむより、こういう横軸で楽しむ方がいいと思うんだよねー。皆さんも是非探してみてね。
つーか、探してみたら、今回のテーマ、以下の書籍のテーマと丸かぶりでした。
中身は見てないんで分からないんですが、内容が被ってないといいですが。
PHP研究所
売り上げランキング: 224461