わしの城を返せ!! 華麗なる戦下手。天庵様こと小田氏治

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一部の戦国時代好きの間では大人気となりつつある、「天庵様」こと小田氏治。
常陸の国の戦国大名である小田氏15代当主。かつ、最後の当主。彼の父、小田政治は室町幕府第11代将軍・足利義澄の弟に当たり、小田家そのものも鎌倉時代より続く名門である。が、血筋と強さは比例せず。
その生涯、数々の戦での負けっぷりに魅了された戦国ファンは数知れない!

めがね治部少輔というわけで、一部のマニアには超絶な人気を誇る、天庵様こと小田氏治さんです。

ぼじぃ市松以前に紹介した内ヶ島さんにも勝る、波乱の人生送った小田さんですね。マニアの間では、「おだ」といえばこの小田氏治さんだな。

めがね治部少輔「織田」はね、有名すぎてね。「弾正忠家」で通じるからね。

ぼじぃ市松さらに織田信長と小田氏治は同い年なんだよね。

めがね治部少輔同じ「おだ」さんでもこうも差が出るとは….

ぼじぃ市松簡単に説明すると、この小田氏治、戦国時代でも屈指の「弱さ」で歴史に名を残した偉大なお方です。
その弱さ、例えれば、最近の横浜ベイスターズ。ご想像いただけるだろうか?

めがね治部少輔Wikipediaのクソ真面目な文章でさえ、なんか笑えるんだわ。これが。ねらってんじゃねーか、と。

弘治元年(1555年)、関東に出兵してきた長尾景虎に呼応して、結城政勝領へ兵を進めるも、敗退。さらに翌年には、政勝の反攻を受けて居城・小田城を奪われた。弘治3年(1557年)には佐竹義昭に攻められて海老島城を失い、永禄元年(1558年)も佐竹・多賀谷連合軍との合戦に敗れた。このため、永禄5年(1562年)頃、庶長子友治を人質に差し出し、北条氏康と手を結んで体勢を挽回しようとしたが、佐竹義昭の侵攻は激しく、またも敗れた。永禄7年(1564年)にも上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らの連合軍に敗れる。何度追われても地元では人望があったらしく、地元民の協力を得つつ、土浦城の菅谷政貞・範政親子らの家臣団に支えられながらその後も何度か小田城を奪い返すも、永禄12年(1569年)には佐竹義重と手這坂の戦いで敗れて居城の小田城を再び失い、藤沢城に逃れた。以後、小田城が氏治の居城となることは無かったという。

Wikipedia「小田氏治」より

ぼじぃ市松「奪われた」「敗れた」「また敗れた」ばっかだw
Wikipediaで笑わそうとしてんじゃねー。

めがね治部少輔まぁ、事実だしw
たった一段落、数行のなかで、何回負けてんだよ、という弱さ。
北関東の英雄。戦国の不死鳥。

ぼじぃ市松弱いっていっても、毎回ケンカ売られて負けてるのとはワケが違う。
かなりの頻度で、自分からケンカ売った上で、負けてるし。

ぼじぃ市松どうも、自分が弱いことに気がついてないんだよな。たぶん、こいつ。
で、わからんのが、なぜか人望あるよね、この人

めがね治部少輔地元民にも人気があったようだし、菅谷親子をはじめとして、家臣も忠義の士ばっか。
でも、家臣の助言もあまり聞かなかったぽいし。
なんでこんなに好かれてんだ、こいつ

ぼじぃ市松妙に助けたくなる人だったんだろうか。「ドラえもんとのび太」的な?

めがね治部少輔「我らの殿は、我らがおらぬと何もできんではないか」
「おお、明日にも滅びそうじゃ。助けねば!」
「そばにおらぬと、すぐに泣きそうになられるしな!」
てな感じだきっと。

ぼじぃ市松氏治の親父の小田政治のころには、すでに小田家自体が斜陽だったんだし、
家臣もさぁ、時代的には主君換えした方が自然な気もするんだよなぁ。藤堂高虎みたいに。

めがね治部少輔「信長の野望 天翔記」でさぁ、小田氏治の魅力値が「64」なんだよね。
これ見直す必要あるんじゃないか、と。条件付きで「100」オーバーだろ。

ぼじぃ市松天翔記以降、信長の野望に「魅力値」ないから大丈夫。

めがね治部少輔あとさー、かわいそうなのが、あれだけ奪還に生涯を費やした、居城「小田城」ですが、結局最後まで奪い返せず。

ぼじぃ市松佐竹に奪られたまんまか。

[googlemap lat=”36.150473″ lng=”140.110887″ align=”center” width=”550px” height=”400px” zoom=”15″ type=”G_SATELLITE_MAP”]茨城県つくば市 小田城跡[/googlemap]

めがね治部少輔そう。んで、その後、太田資正や梶原政景が城主になったんだけど、1602年に佐竹の秋田移封の際に、廃城になる。

ぼじぃ市松ほう。

めがね治部少輔氏治の死去も、1602年。小田城廃城と同じ。
あれだけ取り返したかった小田城が、「こんな城いらね」とばかりに、いとも簡単に廃城に!いとあわれ!いと儚し!

ぼじぃ市松滅亡理由もね、なんかダメ人間ぽいわ。

佐竹とケンカ中、秀吉の小田原征伐はじまる。

秀吉から征伐に加われ、と呼び出しかかる。

佐竹とのケンカに(一方的に)夢中。

小田原に参陣できず。

秀吉怒る。領土没収。

氏治謝る。秀吉却下。

めがね治部少輔なんか、生涯かけて練り上げた、壮大な天然ボケだなぁ。

ぼじぃ市松最終的には結城秀康の客分になってるな。なんだかんだ言って、ほっとけない人だったんだろう。位人臣を極めた太閤秀吉には通じなかったけど。

めがね治部少輔佐竹も何回も戦を仕掛けられているにもかかわらず、殺せなかったんじゃなくて、殺さなかったのかもな。ついつい許しちゃう。

ぼじぃ市松庶長子友治を佐竹に人質に出してるにもかかわらず、攻めるし。でも佐竹も打ち首にしない。

めがね治部少輔鬼義重さんも出来の悪い親を持った子「友治」に対して同情的だったんじゃないか?
「あんな親父をもって、こいつもかわいそうだな…」と。

ぼじぃ市松それでも氏治さんは最終的には常陸国の新善光寺に葬られた(越前永平寺から改装された)訳だから、ある意味故郷に帰ることが出来て幸せじゃない?

めがね治部少輔死してなお戻りたい!という執念がすげーよ。

ぼじぃ市松戦国時代は、こういうコントみたいな話が史実であるから、おもしろいわなw

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