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平安・源平 日本史全般

平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き)

みなさんのような歴史マニアともなればですね、例えば、京都での待ち合わせなんかは、以下のような感じの日常会話になることでしょう。

「明日の合コン、大内裏は南、美福門で待ち合わせな。」
「二条城の中やんけ、アホか。店、押小路沿いやろ? 皇嘉門あたりがええて。」
「刑部省らへん? うち、二条四坊やから近いわぁ」

という風に、「京都は平安京におます」という前提で見るのが、歴士・歴女の雅なマナーでございますねぇ。

ということで、平安京遷都当初の条坊制の大路・小路を、Google Mapに重ねてみました。(ネットで探してもこれっていう地図がなかったので自作でございます)
以下で遊んでみてくださいね。もちろん、拡大縮小や、スマホでのGPSにも対応していますよ!意外と高機能!
ちなみに、大きいサイズで見たい方はこちらで

平安京Mapをフルサイズで表示

使い方
表示/非表示 ボタン このボタンで、平安京のマップの表示/非表示を切り替えます。平安京の大路・小路と、現在の道路を見比べたい時に押してみてください。
透過 ボタン 平安京のマップの透明度を設定できます。マップが半透明になり、Google Mapが透けて見えますので、お好みの透明度に設定してお使いください。
GPS ON/OFF ボタン Google Mapを、現在地の地図範囲に移動させます。ONのままにしておくことで、自分が移動しても、それに追従してGoogle Mapも移動します。京都の市街地で使うと、ナビ代わりになりますよ。
リセット ボタン 平安京マップの表示、透過度、地図の範囲など、初期状態に戻します。GPS ONで、京都以外の場所に飛んでしまった場合に使うと、すぐに戻れます。

平安京の概要

ご存知のとおり、794年に造営・遷都された京の都。平安京。
桓武天皇によって遷都決定され、葛野の地に、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画造営された都城でございます。
その平面区画は、中国の洛陽・長安の条坊制にならっており、碁盤の目のように道路が張り巡らされました。
中央に、最も大きな大路である「朱雀大路」が南北を貫いており、この朱雀大路の東側が「左京」、西側が「右京」と呼ばれました。その朱雀大路の北端、平安京の最北部には、天皇の在所となる内裏、それを含む政治官庁がある大内裏があります。
また、先の都である長岡京は洪水の難が多かったため、平安京では仏法による王城保護の思想を取り入れ、「東寺」「西寺」を設置しています。五重塔で有名な東寺は、弘法大師・空海に下賜され、真言密教の根本道場となりました。
ちなみに、この地が「山城国」となったのは、平安京遷都に際し、桓武天皇が「山背国を山城国に改名する」と詔を下したこの時からです。


現在と大きく違うところ

朱雀大路てどこいったん?
平安京の南北のメインストリートである朱雀大路は、現在の千本通に該当します。場所もほぼ同じと考えられます。
ただ、当時の朱雀大路が、幅28丈(約84m)と、クソでかい道であったのに対し、現在の千本通は広いところでも24,5m程度と、半分以下の幅員となっています。
10世紀には朱雀大路の玄関口である羅城門が台風で倒壊、960年の平安京内裏の焼失、戦国時代では応仁の乱によって京の過半数が焼失するなどして、朱雀大路自体も機能しなくなり荒廃していったため、徐々に縮小されていったためですね。
大内裏て、面影すらあらしまへんなぁ
通常、帝のおわす場所、それが内裏。それを囲う宮城全体が大内裏(平安宮)。大内裏には、律令法にならった数々の官庁がございました。
今となっては、その面影すらも見られません。普通の住宅街な雰囲気になっています。
先述の通り、内裏は960年に全焼失し、その後も幾度となく火災に見舞われ、いつしか天皇は里内裏という、仮の御所におわすようになりました。それが今の京都御所(土御門東洞院殿)になります。
南北朝時代において、光厳天皇が移ったのが始まりとされています。
それ以来、元の大内裏のあった場所は、荒廃の一途を辿ることになります。
五条大路と五条通の場所がずれてはんねんけど?
現在の五条通は、当初の平安京での五条大路の場所ではなく、1590年頃、六条坊門小路の場所に移設されました。豊臣秀吉が、方広寺参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したことによります。なお、元の五条大路は通りとしては縮小され、松原通と呼ばれるようになっています。実際、方広寺は、五条通・五条大橋を通って鴨川を東に渡り、ちょっと南側にありますね。
さすが秀吉、五条通を移設した際に、京で最も大きな通りにしました。なので、現在でも国道1号線となっているなど、今なお京の東西のメインストリートとなっています。
なお、現在の五条大橋には牛若丸、弁慶の出会いの像がありますが、この逸話が本当だとしても、この場所ではなかった、ということになりますね。
右京(平安京の西側)て、あんまし道が残ってまへんな
平安京の造営の当初、宅地敷地として想定されていましたが、この右京の地は桂川付近の湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進みませんでした。10世紀には、京の中心であるべき大内裏の焼失に並行して右京もさらに荒廃。本来禁止されていた農地へと転用されることすらあったとか。そうこうして、平安京の小路もいくつか農道として使われたり、条坊をまたがって農地化されたりして、道が分断されていったためです。
10世紀に慶滋保胤の記した『池亭記』には、「西京(右京)は人家いよいよまれにして ほとんど幽墟にちかし」と書かれています。それほど寂れてたんですねぇ。

平安京 小ネタ

なぜ「上洛」というのか?
中世より、京に上ることを「上洛」といいますが、それは、平安京の右京・左京の通称に由来しています。809年に即位された嵯峨天皇が平安京の西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と名付けたからです。
先述の通り、10世紀にはすでに「長安」である右京は荒廃して市街地の体をなしておらず、都としての機能も景観も失っています。そのため、「京=左京=洛陽」としての呼称が実質的に普及し、上京することを「上洛」というようになりました。
ちなみに「上洛」という言い方が一般化したのは、応仁の乱後、戦国時代のことです。室町幕府が京にあり、足利将軍もそこに在したことから、将軍を保護して権威と名誉を得る目的が数々の戦国大名に定着したことに始まります。

ご注意

上記のマップについては、平安京条坊図は学術的な正確さを保証するものではありません。見やすさ、比較のしやすさを優先し、現在の道路網に合わせて作成しております。
また、すべてのブラウザ、スマートフォンで動作確認をとっておりません。一部の環境では動作しない場合がございます。あらかじめご了承ください。

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